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詩の余白に 友人との対話 『砂の女』 

 Nの詩の余白に(by 林 正憲 Hayashi Masanori)

確かに、日常と呼べる何かがある そこから苛立ちと怒りと憎悪が生まれる 日常の合理性 効率性 あるいは批判なき反復 単なる習慣 『砂の女』で描かれたような、日常を形成する小さな反復たち

そこに、詩のことばが吹いてくる それは光か、沈黙か
あるいは窓辺または水辺に、ひとりの女がいる 確かに幼いが、もう少女とは言えない だが大人のと言うよりは、いくつもの年齢をそれぞれ育てあげつつあるといった……

突然、彼女が歌い出し、私は驚く イタリア語の歌曲を口実に、自らの身体の中で声を響かせ、たちまちその音は外へと流れ出す 内部が外部へ出て行く 秘密 が明らかになるみたいに 今そこに感じられる秘密 答えであるのに問いであるもの よくあることだが、日常の単純な二分法が通じなくなる 明るいが暗く、 暗いが明るい

……と、そんな思考のゲームは引き裂かれる 声の持続が臨界点からあふれ出し  いくつもの異なる物体を一つに結びつける 境界線がわからない 同一的な癒しの空間ではなく、目眩むような差異化の動きそのもののなかに置かれている

と  歌は終わった 世界は変わった だが日常の顔がそこに見える 私は忘れることのない声の響きとともに、少し落ち着いて、Nの詩を読むだろう

 以下林 正憲氏に対する私の応答

Hの詩の余白に(by 永澤 護 Nagasawa Mamoru)


久しぶりに、あの懐かしい頃みたいに、ちょっと恥ずかしいのだが、アッシュと呼んでみたい

そこで、アッシュ
素晴らしい書き込みありがとう

『砂の女』は恐ろしすぎる……小さなものほど恐ろしく執拗な---ミクロの同一者の反復を---果てもなく繰り返すこと……あの男が砂の底なし沼に嵌ってしまったように……詩の言葉がこれほどまでに無力なのは……なんと素晴らしい奇跡/軌跡だろうか……窓辺または水辺に言葉もなく佇みながら……語りかけることしかできないとは……

勘違いしてはいけない……詩によって仮に……日常の単純な二分法が……通じなくなるのだとしても……それこそ無力さの極みであり……だがそれは……もし幸運に恵まれるなら……思考のゲームの無力さを剥き出しにするはずの無力さを……このゲームと共有している……

何一つなすすべもなく……日常の顔をただそのままに……今ここに……そして同時に……いつかどこかの時空に保存しながら……私はもうすぐそこにある……アッシュの文書に出遭うだろう……

 

以上二つの詩は、2005/2/14に林 正憲氏との間で私のブログ上で交換されたものをここに転載した。
 



 

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