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「交換様式D」への問い 『力と交換様式』by 柄谷行人

Ⅰ 転移-逆転移

上記記事のテーマは「転移-逆転移=資本主義システム」の彼方ということになるだろう。転移-逆転移が資本主義システムのコアだという仮説はなかなかの慧眼だ。史上最強度の「転移-逆転移」関係のシステムをウェーバーは「プロテスタンティズム(特にカルヴァン主義)」あるいは「資本主義の精神」として理念型化した。

Ⅱ  告白-反復強迫

「性自認」の「告白」と合わせて考えると人類史におけるカトリック的「原罪の告白 confessio(告解=原罪の告白による悔改め)」という種別化を伴う《我々=人間》の生産装置の力の巨大さ・執拗さが明らかだ。

もちろん「転移」も「告白」も本来的には超越論的言語化レベルの事態であるが、これら二つを掛け合わせると《反復強迫》という欲動の形をとった言語の力になる。「欲動」は言語の外部ではなくむしろ言語の力そのものでこれが資本主義の核心にある。

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Ⅲ 柄谷行人氏の『力と交換様式』を巡って



柄谷行人氏の前掲書は、肝腎のところ(霊的または神的な〈力〉の作動領域)が一種の謎として完璧に(誠実に)投げ出されて(問いとして投げかけられて)いる。

ただし、『力と交換様式』における「力は何かのやり取り(交換)=相互作用そのものである(力は何かのやり取りから生まれる)」という根本前提は現代物理学の基本前提と全く同じである。

交換様式Aの高次元における「回帰」または「反復」としての交換様式Dの成立条件の「時間」はどのように考えられ得るのかという核心的な問題がある。古代の人間たちも全く同じ問題を自覚していたはずだ。

《反復強迫》という概念で捉えられた限りでは柄谷行人氏が『力と交換様式』でいう「交換様式D」の持つ力は(超越論的な)《言語の力》である。上記論点は仮説で数学風に言えば「交換様式D予想」となる。別の形が「交換様式Dはショーペンハウエルパラダイムの意志なのか表象なのか」。この予想の証明は非常に難しい。多分柄谷氏自身にとっても。

『力と交換様式』における極めて枢要な公式: カントの統整的理念としての「自然」=交換様式D に対応。であるなら次の問いが生じる。
 
交換から生じる力」は「観念的な力」であるとされる。では「交換様式D」から生じる「観念的な力」は(カント以後最も普遍的な探究をなし得た)ショーペンハウエル哲学において見るなら意志の力なのかそれとも表象(言語)の力なのか(先の問いの「力」バージョン)

とはいえ私自身の見方の焦点は二分法または二項対立図式ではなく両極の狭間における不断の振動という〈力〉である。柄谷氏とは「反復」という相を共有しているかもしれない。ただし、この反復は反復する振動状態であり《反復強迫》ではない。

霊的な力(信用)  信用創造  定言命法 

『力と交換様式』を長沼伸一郎氏の下記にリンクした作品と突き合わせる必要がある。マルクスが見いだした「霊的な力」が「信用」であるなら「信用創造」への言及が無いのは何故なのか?   マルクスの『資本論』において「信用創造」プロパーから(少なくともその分析から出発する)議論があるのかどうかという問題。そこは根本問題の一つである。

信用創造」に関しては以下の記事を参照。

『力と交換様式』をまとめるなら、柄谷行人氏は「それが何かわからなくても(だからこそ)命がけの飛躍をせよ!」と呼びかけている。それ(交換様式Dの力)はカント的な定言命法である。

附記 永井  均氏の『倫理とは何か』+関連ツイート

永井  均氏の『倫理とは何か』は柄谷行人氏の『力と交換様式』と突き合わせると非常に面白いと(『力と交換様式』を)読み始めた当初から読了後まで強く感じていた。とりわけ《反復強迫》という概念で捉えられた限りでの「交換様式D」の持つ力は超越論的な《言語の力》であるだろうという既述の論点に関して。言い換えれば「社会契約説」(特にからホッブス哲学)の位置づけに関して。






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