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生きることが楽になる!パラミタ実践のススメ

本来の仏教理論には、抜群の透明感があります。それに対してヒンドゥーは、黄金感が漂っているって感じです。ですが残念ながらこの感じが漢訳や翻訳では伝わってきません。

突然何のこと!?意味わからないですよね!今日はひさびさに、突っ込んで仏教の話です。

漢訳仏教が面白くないという問題

決して漢訳が間違っているとか、日本の仏教が良くないという話をしたいのではなくて、漢字だけで仏教を説明されたら重くないですか?ということを話したいのです。始業式の校長先生の話みたいに、面白くなさそうに聞こえる。せっかくすばらしいことを言っているのに、なんか響いてないくてもったいないですよね。

だから最近はあまり自分の専門的なことを公で話したり書いたりせずに、みなさんが聞きたいことに帳尻を合わせていました。これは日本語に限ったことではなくて、英語で書いていても同じです。「本当はそうじゃないんだけどな」っていう感じで伝わってしまい、何かと解説が長くなる。そして長いとやっぱり話を聞いてもらえません。で、そのうち黙ってしまう、というのがいつものパターン。

言葉はユニークな記憶を持っていて、翻訳で聞いたときに「あれ?なんか違うな」と言う違和感が生まれます。漢訳も和訳も原典よりもエネルギーが重いなあというのが正直なところです。

鳩摩羅什(調べて漢字で書きましたが違和感があります、クマラ・ジヴァ)が原典を漢訳したのが4世紀ごろ、玄奘が7世紀なので、ざっと1500年くらいのいろんな時代や人の記憶がそこに溜まっているような感じです。

だからマインドフルネスとかセルフコンパッションとかヴィパッサナーとか、カタカナだと記憶が少なくて、新鮮で興味が持てるのでしょう。

紙がなかったから口伝だったわけじゃない

とはいえ、カタカナが最善と言うわけでもありません。それで失われるものや、生まれる誤解もたくさんあります。それを目の当たりにして、わたしも口伝の大切さを知りました。

混ざりけのない本質的な雰囲気は、口伝なしにして吸い込むことはできません。紙がなかったから口伝だったわけではなくて、これにはもっとエネルギー的な意味があります。そもそも最近はわたしたちの文明でも紙がいらなくなってきましたよね。そのうち口伝に戻るかもしれません。

言葉は記憶のデータで重くなる

日本であれば、仏教が伝わったのは奈良時代です。なのでそれから現代までの1400年間に生きた日本人が使った記憶が仏教語にはたっぷり詰まっています。

ここではパーリー語やサンスクリット語をカタカナで書きますけれど、やっぱり本来の音と違っていてムズムズするというのが本音です。それでも仏教哲学って、本当はすごく透明感があることが伝わったらいいな、と思うのでカタカナで失礼します。

余談ですが、経典は圧倒的にサンスクリット語とパーリー語の二語が占めています。アショカ王の柱なんかはプラクリット語がブラフミ文字で表記されていたりします。その他サンスクリット語をデヴァナガリ文字以外で表記したものもたくさんあります。ですが基本的に経典は口伝で文字は重要ではありません。ダウンロードするのに紙がいらないのと一緒です。

みんな大好きな般若波羅蜜多を例にしてみる

今日はみなさんに馴染みのある(ないかもしれないけれど)六波羅蜜を例に話していきますね(ちなみに上座部は六じゃなくて十です)。

六波羅蜜は6つのパーラミというものを音写したもので、完成という意味があります。日本では完全にあっちに行くという意味で彼岸を渡ると訳されます。日本のみなさんが大好きな般若心経の般若波羅蜜多もパンニャパラミタの音写で、智慧の大成を意味します。

パンニャはパーリー語で、サンスクリット語ではプラジュニャです。プラが一般を超えたとか、本質的なという意味で、ジュニャは意識です。

六波羅蜜の6つとは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧のことですが、書いてるだけで違和感アリアリです。もし漢字の仏教語だけで文章を書いたら、なんか自分が言いたいことと全然違う感じになりそうです。

布施は自分を解凍して自由にするための練習

ひとつ目の「布施」はダーナの漢訳です。布施というと日本ではまるで「法事のときお寺に包むお金のこと」みたいになっています。これはもう通訳不在の国連事務局長のスピーチみたいに、校長先生よりもっと遠い存在になってしまっていますね。

実際のダーナは、与えることで本来の自分へ回帰する行為です。またここで「与える」というと「してあげる」的な感じがしますが、そうではなくて、握っているものを手放す、明け渡すことで全体と共有することを指します。

ダーナをサンスクリット語の語源まで深掘りして訳すと、「溶解する」というのが一番近いのではないでしょうか。ここでわたしたちは基本、凝固してるから不自由だっていう発想が必要になってきます。

いい人になるために与えるのではなく、自分がどのくらい凝固しているのかを知り、解凍していくことがダーナの目的です。

パラミタを実践すると、生きることが楽になる!

わたしたちは生きることに一生懸命になりすぎて、つい自分のことだけしか目に入らないくなってしまいます。それでいつしか力んで「自分」を握りしめてしまうと、保身が強くなり、いろいろなものが敵に見えてきます。そうして敵から自分を守るために距離や壁が形成される。すると全体の循環から分離してしまうので、心身ともにだんだん貧しい状態になってしまいます。

そこでダーナで凍結してしまった貧しい「自分」を溶かしていく。

ダーナを実践すると、「なくても大丈夫だ」「手放したほうがうまくいく」という成功経験を積み重ねるので、安心感が増していきます。そうして手放すことに慣れてくると、敵が減って、壁が崩れ、大きな循環の中へ戻っていきます。

ダーナが習慣になるとリラックスするので、生きることがどんどん楽になります。

でもここで注意してほしいのが、楽になるためにダーナをしているわけではないということです。ダーナで、循環が良くなると確かに楽になります。ですがそれがゴールではありません。ジャータカというお釈迦さまの前世を綴ったシリーズの中で、お釈迦さまが子供を持つ母虎に自分の命を布施したというお話は有名な話ですよね。

あれはダーナパラミタのお話です。自分の血肉も軽くシェア、というくらい握りしめているものが全部溶けてパラミタ(完成)となります。

ヨコシマな気持ちでいいからやってみる。

それでも最初は楽になりたい!というちょっとヨコシマな動機でもいいんじゃないかな、と思います。だったら今すぐダーナしてみてください。お届け先はお寺じゃなくてもいいんです。わたしは一週間に一回、近くのお寺の池に餌やりに行きます。カメとか鯉とか鳩とかにパンをあげるだけです。

我が家ではイライラしたら、「ダーナが足りないんだ!カメに餌やりに行こう!」みたいな、一見よくわからない動機でパンを買って池へと走ります。

これがいわゆる徳を積むと言われるものの構造です。でも「徳を積む」という言葉が持ってる印象とちょっとだけニュアンスが違う。「自分が握りしめてるから上手くいかないんだ」っていう自主的な発想が抜け落ちて、神頼みになってるんじゃないかなって思います。

自分で自分を解凍しよう、という意思を持ってダーナしてみてください。ヨコシマでいいですから。

大乗仏教に小士・中士・大士という概念があるように、上座部でもパラミタに①普通のパラミ②アップグレードしたパラミ③個を超越したパラミと三段階あります。まずは楽になりたいというヨコシマな気持ちで①の普通のパラミを実践してみてください。

まだ最初のダーナしか説明していないのに、こんなに長くなっていまいました。なので今日は終わりにします。

ダーナだけでも充分に自分というものが一体どう成り立っているのかという構造を知る手助けになります。

続きが読みたい方が一人でもいれば、また続きの持戒・忍辱・精進・禅定・智慧についても書きますね。なければわたしたちには今、ヨコシマなダーナだけで充分ということです。コメント欄に「続き書いてくれ」とコメントしてください。

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