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【読書】徳川忠長~兄家光の苦悩、将軍家の悲劇~

先日、江戸幕府の成立過程で繰り広げられた壮絶な「権力争い」に関する書籍「徳川幕閣」を読んだ。

この本の感想は上記の記事でまとめているが、本の中で繰り返された「権力争い」の中で、個人的に気になった人物がいる。

2代将軍 徳川秀忠の三男でありであった、徳川忠長(ただなが)だ。

徳川忠長は、慶長11年(1606年)に誕生した。兄に3代将軍となった徳川家光をいて、年の差は2歳だったとされる。

この徳川忠長は、兄の徳川家光に対しては強烈な対抗心があったとされ、常軌を逸した行動により、切腹させられた人物として有名だ。

徳川家光と徳川忠長の関係については様々な噂が囁かれていたため、後世になって創作されたエピソードも非常に多い。

そこで、同時代的な資料をもとに、徳川忠長について詳細に記載した書籍、「徳川忠長~兄家光の苦悩、将軍家の悲劇~」(小池進 著: 吉川弘文館)を読んだ。

1. 良好に見える兄弟仲

本書を読んだとき、まず驚いたのは、家光と忠長の兄弟仲は良好に見えたことだ。(あくまで資料上の話ではあるが)

本書を読む前のイメージとしては、「小さい頃から兄に対して対抗心を持ち、身勝手な振る舞いが多かった」印象があった。

しかし、本書では以下の事実が指摘されている。
 ①兄の家光は頻繁に忠長の家を訪れていたこと。
 ②忠長も家光が諸大名の家を訪れる時に、頻繁に随行していたこと。
 ③家光が体調を崩した時、その体調を気遣う手紙が残っていること。
これらの事実をみると、少なくとも"表面上"は家光と忠長の兄弟仲に問題はなさそうにみえた。

2. 異常行動が顔を出し、自害へ

比較的良好そうにみえた家光と忠長の兄弟仲だが、寛永8年(1631年)ごろからその関係が急激に変化し始める。忠長の異常な行動が問題になってきたのだ。

本書の中では、この頃から忠長が「家臣を次々に処刑している」や「街に出て通行人を斬る"辻斬り"を行なっている」といった噂がたったことを指摘する。

これらの行動は幕府内でも問題視され、甲府での蟄居が命ぜられた。この蟄居の結果、忠長は父親である2代将軍 徳川秀忠が亡くなった際も、面会が叶わなかったとされる。

甲府に蟄居となった忠長だが、以後も問題行動はおさまらなかったとされ、寛永9年(1632年)には上野国高崎(今の群馬県高崎市)にて逼塞。寛永10年(1633年)には自害となり、28年の生涯を閉じた。

3. 不思議が残る忠長の行動

正直に書けば、本書を読み終えて非常に不可解な部分が多くモヤモヤが残る。

忠長の生涯の前半、家光と忠長の関係は良好であり、記録上はそこまでの問題行動も同時代の記録には残っていないようであった。(1, 2点不審な点は本書で指摘されているが)

それが、寛永8年(1631年)を境にして多くの問題行動が記録され始める。個人的に、この間の整合性がとれずにモヤモヤが晴れなかった。

当時の人も同じ気持ちだったのだろうか?
だから、後世において「猿を1200匹殺した」などの逸話が生まれたのではないだろうか?


ちょっと不思議で不気味な徳川忠長の人生だったね。

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