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『万引き家族』の「言いたいことがあるのに、言えない」というコミュニケーション

映画『万引き家族』がカンヌでパルムドールを受賞した時の審査員長のケイト・ブランシェットのコメントは
「俳優の演技と監督のビジョンが完璧に咬み合っていることに圧倒されました。並外れた映画です」
「特に泣く演技。もし今回の審査員の私たちがこれから撮る映画の中であの泣き方をしたら、安藤サクラの真似をしたと思ってください」
だったそうで・・・最高の宣伝文句じゃないですか(笑)!

だって世界中の俳優たちがこの映画のその演技を見てみたくなるもの!

さてこの映画を観た方々に質問したい。ケイト・ブランシェットの言う「あの泣き方」とは具体的には何のことだと思いました?・・・感情の爆発のさせ方?涙のあつかい方?心意気?w

どのあたりが欧米の名だたる女優たちが「真似する」可能性のあるよ!っていうくらい新鮮な演技のアプローチだったんでしょうか?

この映画全編を通じてボクが圧倒された・目を離せなかった演技は「言いたいことがあるのに、言えない」という演技です。 安藤サクラさんや樹木希林さん、城桧吏くんが「口に出して言えないこと」を表情や気配で雄弁に語っていました。

邦画はこれをセリフとして語らせてしまうことが多く、もしくは説明的な表情のアップのカットを挟んだりして情報として伝えてしまうことが多いんですけど。それをこの『万引き家族』では人物間のコミュニケーションの中での反応と気配だけで表現しているんです。

例えば安藤サクラさんが女の子を両親のもとに帰すのをやめようと思うくだりの無言の演技、樹木希林さんが元旦那の息子夫婦とケーキを食べるくだりの無言の演技、それと映画後半の城桧吏くんの車上荒らしをして逃げるリリーさんの背中に向ける無言の演技には胸を締め付けられました。

でもこれって凄く難しい演技ですよね。だって俳優って、ついつい表現できているか不安になって説明的な演技をしてしまうじゃないですかw。

自分の内面からの自発的な感情の演技ではなく、外から入ってきた刺激に対する自然な反応なので、「意図的に感情やキャラを表現しようとしている役者体」ではなかなか身体と心が素直に反応できない。しかも最初は出来てても何テイクも繰り返して撮っていく中で自然な反応は木端微塵に失われてゆきます。最悪テストだけで終わってしまったり(ぎゃー)・・・俳優ってホント大変な仕事。それらを乗り越えて演技する俳優って・・・どんだけアスリートなんだ!って。

しかもね、「言いたいことがあるのに、言えない」台詞って脚本に書いてないんですよw。脚本には口に出した言葉だけが書いてあるものなので。その「言いたいこと」は俳優が自分で脚本を読み込んで見つけ出すか、もしくは演技のコミュニケーションの中で発見するかしかないんです。

そんな感じで『万引き家族』の登場人物たちは淡々とコミュニケーションを積み重ね、その中でディープなエモーションをうねらせながら話を進めてゆきます・・・後半の警察の2人(池脇千鶴・高良健吾)が出てくるまでは!

さっきも書いた通り、この映画の登場人物たちは基本キャラや感情を説明的に演じていないのですが、この警察官2人は言葉遣いや表情・動作などで思い切り「警察官」を説明的に演じているし、家族に対する感情を説明的に可視化するような演技をしています。

これは80~90年代式のちょっと古い演技法なんですが・・・つまり彼ら2人はこの映画の中で他の俳優たちとは別の役割を与えられているんです。

それは「家族たちに前半のようなコミュニケーションをさせない。そしてそれぞれを孤立させる」というミッションです。

警察官2人は家族たちにたくさんの言葉を投げかけますが、基本家族たちからの言葉をきちんと受け止めてはいません。それは家族たちの言葉がどれもこれも犯罪者の言い訳にしか聞こえないからです。そして2人は自分たちの思う「倫理観」や「正しさ」をまさに武器として振りかざして家族たちを攻撃してゆきます。

『万引き家族』のカメラワークはすごく流麗に人物たちに寄り添うような撮影なんですが、洗濯屋での「でも言ったら殺す」のくだりと、この警察署のシーンだけはカメラが俳優の正面に入り込みます。取調べ前半では警察官の肩舐めのショット、そして取調べ後半の重要なカットは家族たちはそれぞれカメラ目線で、警察官2人の声だけが彼らに非情に投げつけられ、それに対する家族たちの反応を撮影するという手法なんですが・・・残念ながら家族たちはもう前半のように活き活きとは演じていません。

前半では家族同士でコミュニケーションしながら演技のグルーヴ感を出してゆくことで活き活きとしてきた彼らが、いまはカメラを相手に演技しているからです。相手役の警察官2人はカメラの横でセリフを投げかけているだけです。この前半後半の落差!

前半部分でコミュニケーションだけを演じていた家族たちが、これらのカットでは様子が変わってしまっています。キャラや感情を説明的に演じてしまっているんです。だって目線を向けるべきカメラはただのレンズでコミュニケーションを投げかけてこないし、警察官2人の声も淡々と言葉を投げかけるだけで、そこにコミュニケーションが発生しないからです。だから反応できない。反応すべき対象が存在しない。

結果、リリー・フランキーさんはひとり芝居的な演技を始め、松岡茉優さんは演技テクニックを駆使してカメラレンズと完璧なコミュニケーションしようと奮闘し、そして安藤サクラさんはそれまでの倍くらい雄弁に感情やキャラを表面に出しながら演技をしています。

もうそこに以前の家族たちはいません、家族たちはバラバラになったんです。・・・なんという演出!

そしてそこで例の警察官の台詞があり、そして安藤サクラさんの「あの泣き方」が唐突に出現します。家族たちが魅力を失っていった流れからのあの鮮烈な反応、本物の感情の爆発・・・コミュニケーションが爆発的に復活するんです。

そして「あの泣き方」の直後に彼女は同じセリフを2回言うんですが、そのうちの1回は自分に向かって、もう1回は子供たちに向かって言っているようにボクには見えました。

時空を超えて不意に目の前に現れる子供たちとのコミュニケーション。リリーさんが何度も遠まわしに遠まわしに子供に言わそう言わそうとしていたあの言葉を、本当は自分も熱望していたのだと知り・・・彼女の中で何か大きな変化が起こります。

そう「言いたいことがあるのに、言えない」というのは、それも立派なコミュニケーションのありかたのひとつなんですよ。

それはこのように強く可視化することが可能で、観客はそれを見て涙してしまう・・・。この『万引き家族』も、そしてボクの大好きなドイツ映画『ありがとう、トニ・エルドマン(2016)』やイギリス映画『私は、ダニエル・ブレイク(2016)』も、カンヌではここ数年そういう映画がたくさん上映されています。

これってまさに今世界中の人々が抱えているコミュニケーション不全の問題であり・・・つまりまさに今俳優が演じるべき演技で・・・『万引き家族』はそこに重要な一石を投じたのだ!という事があのケイト・ブランシェットのコメントの真意だと思います。

いや~俳優にはまだまだ取り組むべきことが沢山あるなあ。。。

小林でび

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