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花揺れる黄昏



 梅雨空の重く垂れこめた雲を見上げると、40年程前、ビルマ(現ミャンマー)へ一人旅に出かけた時のことを思い出す。6月の雨季に入った首都ラングーン(現ヤンゴン)の目抜き通りには、生活必需品を扱う商店や小さな屋台が延々と連なり、現地の人々でごった返していた。歩道には鍋一つ火鉢一つで揚げ物を出す店もあった。しかし観光客向けの商店や飲食店というものはなく、怪しげな客引きに出会うことも皆無だった。他のアジアの国々と比べて決して豊かとは言えないが、しかし素朴で誠実な人柄が、行き交う多くの人々の表情や物腰に見て取れた。

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 寺院に入ると、参拝に訪れた多くの人々の敬虔な祈りの姿に出会った。誰もが手に花や供え物を持ち、冷たい大理石の床にひざまずき、長い時間、同じ姿勢を崩さずじっと祈りを捧げている姿には畏敬に念すら感じた。
ラングーン中心部にある黄金色に輝くシュエダゴンパゴダやスレーパゴダには、朝から晩まで一日中たくさんの参拝客が訪れていた。時折降る激しいスコールの中でも身を寄せ合いながらやってくる大勢の人の姿があった。

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 以前、テレビの旅番組でミャンマーが紹介され、寺院に参拝する若い男性へのインタビュー場面が映し出されていた。

「何をお祈りしているのですか?」
「人が幸せになることを祈っています。」
「自分のことは何か祈らないのですか」
「自分のことはほとんど祈りません。」

そんなことは考えたこともないという感じで、照れ笑いをするように答えていたのがとても印象的だった。

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 都市部から地方へ行くと微笑み度はさらに高まる。ただすれ違うだけでも、微笑みが向こうからやってくる。よそのアジアの国では何か金品をねだろうとする薄笑いによく出会ったものだが、ここでは不純な気配というものが微塵もない。

朝食をとろうと、歩道上に置かれた粗末な木のテーブルとイスに腰かけ、屋台の主に朝定食を注文する。すると店にいた数人の若者たちが、イスを持ってニコニコしながら周りに集まってきた。見慣れぬ旅行者に次から次へと質問が浴びせられる。みんな目をキラキラ輝かせて、同じアジアの国、日本の話を夢中になって聞いていた。

寝台列車の安い席のブロックに隣同士、見ず知らずの他人と一緒になっても、みんなで車内弁当を食べて、お茶を飲んで、そこに隣近所のブロックの人まで加わって、ワイワイガヤガヤとおしゃべりが深夜まで続いた。




 夕方、見晴らしのいい丘の上に建つ寺院に参拝した際、住職にここに一晩泊めさせてくれと頼んだら、
「本堂でよければかまわないよ。」と快く招き入れてくれた。
真っ暗な本堂の照明を一斉につけると、きらきらと黄金色に輝く大きな仏陀が鎮座していた。そのすぐ前の内陣にござを一枚借りて敷き、仏陀を見上げながら一夜を明かした。

翌朝、その住職と話をしていたら、突然日本語をペラペラと話し始めた。戦争中日本軍の兵隊に教わったのだという。アジアの国ではその当時、まだ戦争による心の傷跡が残る年配の方に出会うことがあり、日本人だとわかると睨まれることがたまにあったが、その住職はまったく違う親日家だったので、すごくほっとした。


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 別の日の夜、安宿で一緒になった若いビルマ人の新婚夫婦と話している最中に、それまでの数日間で経験し続けた、基本的かつ極めて大きな疑問を投げかけてみた。
「なぜビルマの人たちは皆、見ず知らずの旅行者にもやさしく微笑みかけてくるのですか?」と。
すると若いお嫁さんがすかさず、きっぱりとした口調でこう答えた。

 「人にやさしくすること、それは私たちの喜びなのです。」

「私たち」とあえて言うところが凄いと思った。
みんながはっきりと共有している意識だったのだ。
揺るぎない堂々としたその答えに、驚く以上に畏敬の念のようなものを覚えた。ここは地上に現れた菩薩界のようなところだなと思った。


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 ところが、その旅からおよそ40年後の2021年2月、ミャンマーで軍部クーデターが起きたというニュースが流れた。2011年に民主化になってから、わずか10年で再び軍事独裁政権に戻ってしまったことになる。

しかしながら以前の軍事政権時代とは、まったく異なる事態が発生した。
ミャンマー国民による大規模な抗議デモが全国各地に広がったのだ。軍はデモに参加する人々に武力弾圧を加え、拘束した人々を拷問し、多くの死者を出すという異常な事態となった。現在は大規模な抗議デモはなくなり、その代わりに軍に対する「不服従運動」が続いているという。

国際社会は、制裁によって軍を弱体化させようと意図する西側諸国と、静観する立場をとる中国とロシアの、いつものお決まりの対立パターンを繰り返すだけで、事態は一向に好転する気配がなく、泥沼化する一方だ。



 40年ほど前に一人旅をしたその時も軍事政権下だった。政権が20年ほど続いていた時期に当たる。今でも入国した時の様子はよく覚えている。

バンコクから2時間、モンスーンの東南アジアの空は乱気流の嵐。ジェットコースターよりも酷い乱高下を繰り返し、やっとラングーンに到着した時には全身からすっかり血の気が引いていた。よろめきながら飛行機に横付けされたタラップを降り、徒歩で空港のイミグレーションに向かうと、窓口のガラスの向こう側には、軍服を着た兵士たちがずらりと並び、冷徹かつ威圧的にこちらを睨んでいた。

荷物をすべてチェックされ、持っていた財布の中身から、フィルムの数、カメラの数に至るまで、金目の物はすべて申告書に手書きで記入しなければならなかった。出国の時にその申告書が再びチェックされ、入国後に売ったような形跡があるとえらい目にあう。

許可される滞在日数は7日間。宿泊先から行動予定にいたるまでの詳細を書かされた。予定を何も考えずに到着したので、そこだけは適当に書いたが、後でそれが問題になることはなかった。
東京のビルマ大使館でビザを取得したのはその年の6月。その時点で日本人旅行者として167番目だった。日本から観光で行く旅行者は少なく、大抵の人はビルマ戦線での戦死者慰霊が目的だった。

イミグレーションの張り詰めた空気が、旅人の自由な気持ちを奪い、絶対に服従させようとする、威圧感のかたまりのように重くのしかかってきた。
ミャンマーの人々はこの重圧感の中で何十年もずっと暮らしてきたのだ。

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 以前の軍事政権の時には起こらなかった抗議活動が何故、今これほどまでに激しく起こったのだろうか。
その理由としては以下のコメントがなるほどと思わせる。

「この10年間、自由な社会を経験したミャンマーの人たちは、『もう二度と、軍事政権時代には戻りたくない』という気持ちが強い」
NHK 目指せ!時事問題マスター 藤下解説委員


その束の間の、10年の自由以前は、半世紀以上も軍事政権が続いていた。
だがしかし、その強い気持ちというものは、わずか10年という短い自由の間で育まれたわけでは当然ないはずだ。

デモに参加した14歳のウィンワさんという女の子は、遺書を入れたカードホルダーを首からぶら下げながら、治安部隊の銃撃を受け、死亡した。
遺書には、「私が死んでも闘いは続けてください。自由が取り戻せるのなら、たとえ死んでも幸せです。」と、書かれていたという。

14歳の女の子までもが命を懸けて取り戻そうとした自由。
その想像すらできないほどの強い意志は、いったいどこから生まれたのだろう。


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 ビルマ北部の大都市マンダレーから、ぎゅうぎゅう詰めの乗り合いジープに乗り、土砂降りのジャングルの悪路を、まるでモーターボートに乗っているかのように飛び跳ねながら走ること2時間、タイとの国境に近い所にメイミョー(現ピン・ウー・ルウィン) という小さな町に着く。
標高1000メートルとあって、他の場所に比べるとやや涼しい。
かつてイギリス統治時代に避暑地だった所だ。

統治時代に建てられた洒落た洋館が立ち並び、その中の数軒がホテルにリフォームされ営業していた。庭の花がきれいに咲き誇る一軒を見つけ、その夜の宿とした。洋館の周辺には地元住民の住宅が点在していた。夕食前のひととき、住宅地をぐるりとひと回りすることにした。


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 途中、道端に腰かけて休んでいると突然、近所に住んでいる子供たちが全員集まったかのような大集団に、あっという間に囲まれてしまった。
最初、至近距離まで子供たちがにじり寄ってきた時、思わずカメラバックを持つ手に力が入った。しかしそんな些細な心配を吹き飛ばすかのように、みんなニコニコ可愛い笑顔でただじっと、静かにこちらを見つめているだけだ。それはたじろぐほどにストレートな眼差しだった。

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 子供の人数がだんだんと増えていったその時、はっとするようなことが起こった。背の高い年長の子たちが、後からやって来た背の低い小さな子たちを自分たちより前に導き入れて、少しでも異国の旅人の近くに寄せて、よく見えるようにと促したのだ。
いつもそういうようなことをしているのだろう。それが当たり前という感じの動作だ。誰かが言い出したわけでもなく、全員が連動して、すっと自然に動いていた。小さい子供たちの喜ぶ姿を見て、年長の子たちもみんなニコニコしていた。

そしてもう一つ驚いたことには、子供たちをよく見ると、肌の色や顔かたちが、いろいろな民族から成り立っているのがわかった。ビルマは元々多民族国家だが、その狭い住宅地では、多民族の子供たち同士がみんな仲良く共存して生きていた。


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 子供たちに遊び道具は何もない。
ある女の子は片手に花を活けたカップだけを持ち、楽しそうに友達とおしゃべりをしながらやってきた。
小さな男の子たちは、もっと小さい赤ん坊の弟を抱っこしてやってきた。

大声で騒ぐような子供が一人もいない。
落ち着かずに動き回る子もいない。
自分が中心人物だと息巻く子もいない。
人より自分が前に出ようとする子もいない。
みな驚くほどに穏やかで、成熟していて、朗らかだ。

それは競争ではなく、共存して生きていくということが、この街に生きる人々の常識だったからではないか。

その対極にある競争社会では、子供たちを巻き込んで、ライバル意識を育んでいる。友達は仲間であっても同時に競争相手だ。気持ちがネガティヴに偏れば、それがいじめへとつながってゆく。


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 泥の中の蓮。
それはまさにミャンマーの人々に相応しい言葉だ。
人にやさしいということ、思いやりをもつということ。それは簡単なようで至極難しい。しかしビルマの人々は、子供の頃からすでに自然と体得していた。

今年、軍部クーデターによって奪われたミャンマーの人々の、14歳の女の子までもが命を懸けて取り戻そうとしたその自由。

その強い意志はいったいどこから生まれるのだろうと考えた時、40年前の記憶の底に埋もれていた一つの言葉と、少女の遺書に書き記されていた言葉とが重なり合い、一つの印象へと変わった。

「人にやさしくすること、それは私たちの喜びなのです。」

「私が死んでも闘いは続けてください。自由が取り戻せるのなら、たとえ死んでも幸せです。」

デモに参加したミャンマーの人々は、自分の自由のために闘っているのではなく、他者の自由と生きる喜びのために、命をかけて闘っているのではないか。


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 夕陽に浮かび上がるパゴダの荘厳さは、数百年、千年の時を経ても尚、光輝き続けている。それはまた同時にミャンマーの人々の崇高な心を現すモニュメントでもあるように見えてくる。

命をかけてまで人の自由を求める意識は、数十年の軍事政権下で育まれたのではなく、もっと長い間、数百年或いは更に古い昔からの、ミャンマーの人々のDNAに刻み込まれた心の伝統から生まれたものではないかと思う。


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 黄昏の裏通りに、自転車に乗って、家路につく夫婦の姿があった。
道の向こうに消えるまで、赤い花が背中でそっと揺れていた。

懐かしさを感じるのは、子供の頃にはそれが当たり前だったような情景を重ねて見たからかもしれない。
かつて日本はアジアの国だった。
今は、街も文化も暮らしもすっかり変わってしまった。
それでもきっと残っているだろう。
日本人の心の中に、今でもアジアのこころが残っている。
微笑みの中に、残っている。

そしてミャンマーの人々に平和な日が訪れるのを祈り続けていたいと思う。



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詞の内容はわからないが、ミャンマーの女性が歌う、ミャンマーの空気が伝わってくるような曲。

Nge Chit Pone Pyin - Khin Shwe Wah
Hnin Oo Khaing




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