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ホー説?

文学と文芸の違いについて考えてみた。
学校の講義に例えて言えば、文学というのは講義の内容であり、文芸というのは聴衆が如何に興味深くそれを聴くかという言わば「テクニック」だ。
出版業界において、本が売れるか売れないかは死活問題で、まず読んでもらわなければ話にならない。それも多くの人が買ってくれなければ出版が存続できない。
芥川龍之介は「亦一説?」の中で、「古往今来小説などを面白がる人は沢山ゐない。」と書いている。
喩えが適当でないかも知れないが、自炊する人が減れば包丁は売れない。戦争がなくなれば武器は売れない。子供が減ればオモチャは売れない。
外食や買弁で生活できる都会の現代人が、健康に気を使ったりして食べる物を吟味しはじめるのと同様、読書が教養だと考える人が古典文学を読む。エンタメ小説を軽薄だと蔑み、頭の悪い人の一時的な快楽だと断する。
では一体、教養とは何か?
かつて文盲の人が多かった時代、生きる為に必要な知識は、それぞれその人の生業に関わる事だった。道具の使い方や技術だ。
しかし金勘定ができないと巧く搾取されてしまう。文字を覚えなければ証文が読めない。自分がどんな契約をしたのか知る事ができない。
近代教育にはそういう被支配層によるニーズがあったのだ。つまり教養は近代社会における処世術だ。それは時を経て、「学歴」というレッテルだけの空箱に変わって行く。
かつて和歌は貴族の娯楽であった。知性というのは元々排他的で、暗号の塊だ。何を言っているのか容易には判らない方が都合が良い。知ってる持ってるでマウントを取る優越感の共有だ。
「見た?知ってる?あれって良いよねー」「そうだね~」のあと、話は続かない。
昔、スネークマンショーというラジオ番組のネタでこんなのがあった。

1億総評論家時代だ。
「僕の意見は君とはちょっと違う」と言いながら、皆が同じ事を言う。知識のひけらかしと自らの格付けしかしていない。
「わかるかなあ、わかんねえだろうなあ」と言いながらその実自分もわかっていない。
でも彼等の化けの皮を剥ぐのは得策ではない。ソクラテスはそれで裁かれた。

いささか言葉遊びになってしまうが、エンタメ小説というのはジャンルを指す言葉でもないしジャンルを特定しない。アミューズ小説という言葉はまだ聞いたことがないが、単なる「暇潰し」や「気晴らし」だったとしても、文字で書かれている限り、知性を必要としないものはない。
多くの人に読まれるのは、多くの人が共有する知性だからだ。
それがお定まりのパターンで何かその後の人生にとって有益でないと思われても。

何が言いたいのか自分自身わからなくなってしまった。
誰かがこれを読んで、ひとりでも「ほう」と思ってくれれば本望である。


2024.1.24



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