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九州南北朝の史跡巡りシリーズ🍊八代編⑦ 【古麓城跡・前編】

こんにちは。今回は八代市散策レポートの7回目です。八代は南北朝時代、薩摩を経て肥後入りした征西将軍宮・懐良親王が菊池に入る以前に10日間ほど滞在し、菊池陥落後は後西征将軍宮・良成親王と菊池武朝が名和氏を頼って西征府を移した九州南朝ゆかりの都市です。今回ご紹介する史跡は、名和氏の築いた古麓城(の一部)です。

南北朝時代の八代荘は南朝方の名和氏の所領。後醍醐天皇の臣・名和長年の長男義高に八代荘の地頭職が与えられ孫顕興(あきおき)の代で一族郎党を率いて八代に下向した。

前後征西将軍宮・懐良親王と良成親王及び菊池武朝については、菊池散策記事【予告編】の人物紹介にて詳述しておりますので是非ご一読下さい↓

散策ルートと古麓城の説明

下の添付地図で、本記事中の散策ルートをオレンジ線で表しています。まず、春光寺裏手の登山者用の駐車場に車を停め、古麓城跡への入り口となっている、春光寺横の古麓稲荷神社から登ります🏃‍♀️古麓城跡散策推奨ルート上の丸山城→鞍掛城→新城跡を歩いて、懐良親王菩提寺・悟真寺近くの砥石観音堂から下山し、宮さま(懐良親王)の御陵にお参りして散策を終了しましたが、前編の本記事は鞍掛城跡までのレポートとなります。今回は山城散策ということで、ひとつの散策マップでは全体像が分かりにくいので、いつもの八代市パンフレットの散策マップと、現地案内板の古麓城縄張図、更に春光寺横のハイキングコース案内板にて散策ルートを示します。(ちょっとくどいですが😅)

パンフレットバージョン↓

かなりざっくりな地図なので、ルートあってるか不明。

縄張図バージョン↓

雨晒し日晒しの現地案内板なので、薄汚れて見にくいですが💦丸山城→鞍掛城→新城の位置・構造が分かりやすい

ハイキングコース案内板バージョン↓

稲荷奥の院の後方の山が丸山城跡、左横の古麓城跡と記載があるのが新城跡、その間の尾根が鞍掛城跡になると思われる。画面右上に詰城・八丁嶽城の記載有(今回回避)

※上記に示したルートはかなりざっくりしたもので、私の間違いもあると思うので、もし実際に行かれる方がいらっしゃったら(いないと思いますが)事前に十分ルートをご確認くださいね。

最初に、春光寺裏手の駐車場に立っている案内板を引用させて頂き、古麓城の詳しい説明をしたい思います💡

古麓町上り山一帯には、南北朝時代(1336年〜1392年)から戦国時代(1393年〜1590年)末まで250年余りの間、山城がありました。この山城は現在、古麓城と呼ばれていますが、当時は八代城と呼ばれていました。
 建武元年(1334)に名和義高が八代荘の地頭に任じられ、翌年には代官として一族の内河義真が下向し、南北朝の争乱に備えて築城したと伝えられます。
 南北朝合一後、古麓城を中心に八代地域を支配していた名和氏は、文明16年(1484)に球磨地方を拠点とする相良氏に追放された後、明応8年(1499)古麓城主に返り咲きますが、文亀4年(1504)に相良長毎が古麓城に入城して八代を領地とし、天文3年(1534)には相良長唯によって城の大規模な整備と城下町の整備が行われました。
 天正9年(1581)響野原(現宇城市)で相良義陽が戦死して島津氏の領地となり、翌10年に島津氏家臣の平田光宗が古麓城に常駐することとなりました。
 しかし、天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州攻めによって、島津氏は八代から退去し、薩摩に戻りました。九州攻めの最中の4月19日には豊臣秀吉が古麓城に入城し、4日間滞在してキリスト教の宣教師ルイス=フロイスの面会を受けています。フロイスが語った八代の美しさが『日本史』に記されています。
 九州攻めの後、肥後の領主となった佐々成政は国衆一揆の責任を負わされて切腹させられ、八代は小西行長の領地となりましたが、行長は城を球磨川河口の麦島に移したため、古麓城は廃城となりました。

ここで例によって補足説明したいと思います💡古麓城が北朝軍によって陥落し、南北朝合一後、名和顕興は南朝方にも関わらず本領を安堵され、そのまま八代を統治します。(ここら辺は最後のまとめで詳しく述べたい。)時代は下って戦国時代に入ると、八代の南方・人吉球磨地方の相良氏が名和氏を宇土に追いやって八代の領主となり、古麓城を拡張します。名和氏時代の古麓城は、主城である飯盛城・丸山城・鞍掛城・勝尾城・詰め城である八丁嶽城の五城群からなっていましたが、相良氏は新たに鷹峰城・新城を築き、七城群に拡張しました。

今回散策したのは、古麓城散策推奨ルート上(ハイキングコース案内板では遊歩道コースとなっていて初心者でも歩きやすそう?)の名和氏時代の丸山城と鞍掛城及び、相良氏時代の新城になります。名和顕興が最後に立て籠った詰め城の八丁嶽城(八丁山 標高376m)については、YAMAPのアプリまで入れて登るのを検討したのですが、みなさんの活動記録を拝見すると、ロープ伝いの箇所もあるガチ登山級&苦労して登ったとしても眺望なし、城の遺構もよくわからないということで、私には難度が高すぎて攻略不可と判断して断念しました😅

それではこれから、めくるめく山城散策に出発です🏃‍♀️(コメントは主にキャプションに入れていきます。)

丸山城跡

丸山城へは古麓稲荷神社から登ります。春光寺(画面左)の隣に立つ古麓稲荷神社の鳥居を一礼してくぐります。
古麓稲荷神社まではこんなに長〜い石段!
神社まで登り切るだけで結構疲れます💦
古麓稲荷神社に到着。ここも丸山城城域。標高52m。
お詣りを済ませて、社殿横を更に奥の院へと進みます。
奥の院へ続く道
奥の院の展望所に着きました。ここからの眺めが最高なのですが、まずは木標の解説書を引用します↓

   古麓稲荷神社 御神祭 保食大神
建武二年(1335)名和長年の長男義高は建武中興の恩賞として八代荘を頂き地頭職となったので家臣の内河義真を代官として八代につかわした。義真は古麓山一帯に山城を築いて八代荘を守った。これが八代に城ができた始まりであるが、その八代城の鎮守と豊穣を祈った。
松井家の菩提寺春光寺が延宝五年(1677)11月18日、この山下に落成してからその鎮守として今の城地に御遷座された。社は高い石段(242段)を上り尽くした丸山の中腹の平地にあり、八代平野球磨川から遠く八代海、天草島、雲仙岳を一眸におさめ春は桜花に包まれて美しく此の高い石段を朝夕にトレーニングする小中高生等は勿論青壮年お年寄りに至る人達で賑わい八代の名所の一つである。

そしてその展望所からの眺望がこちらです👇✨

カーブを描く球磨川の先に八代のランドマーク・日本製紙八代工場の煙突が見える🏭
高田御所方面。肥薩おれんじ鉄道の赤い鉄橋が下に見える

さて、ここはまだ丸山の中腹です。先に進みます

多分ここが奥の院。祠の後方に丸山の山頂を削平した丸山城主郭があったと思われるが、登り口無く、主郭があった場所には登れなさそう。現在は木が鬱蒼としている山頂を仰ぎ見ながら縁を進みます。
更に祠が見えて来ました。
祠の脇を進みます。
ところどころ道標があるので迷うことはありませんが。。
鞍掛大明神まで来ました。ここから先に進むと鞍掛城。(因みにここまでの丸山城跡では山城らしき遺構は見つけられませんでした。。)
倒木!!

因みにここから先、鞍掛城のある尾根に出るまでの道が大変でした😅歩ける幅が50センチ位しかなく横はなだらかに崖になってて滑りやすい箇所があって、一人だし他に誰も歩いてないし滑落したらどうすんべ〜と怖かったです💦登山用の杖借りて来てよかったと思いました。(無かったら厳しかったと思う。これ本当に遊歩道⁉️)…そんな必死な状態だったので暫く写真はありません笑

やっとのことでヒヤヒヤな箇所を抜けると、八丁山(八丁嶽城)への分岐点にでました↓

私は今回、八丁山への登頂は断念しましたが、ここで八丁山山頂にあったと言われる八丁嶽城と、名和顕興の八丁嶽城での籠城戦について説明したいと思います💡

先程の丸山城や新城が標高150m前後なのに対して、詰めの城・八丁嶽城は標高376m。山城散策に臨んで参考にした中井均著『城館調査の手引き』には、以下のような記載があります。

これまでの経験から1時間30分以上の時間をかけて登らなければならない山城はまず存在しない。高い山城でも大半は山麓より1時間30分以内で到着する。比高にして山麓より約300メートルくらいが高い山城である。こうした山城は南北朝時代の山城や、守護・戦国大名クラスの居城に多い。

中井均著『城館調査の手引き』p.27-28

八丁山はYAMAPアプリの皆さんの活動記録を見ると1時間〜1時間30分くらいかかっているようですし、300メートルが高い山城と言われる中で八丁山は更に76m高いですから、全国的にもかなり高い山城といえるでしょう☝️八丁嶽城の堅牢ぶりが分かりますね。

さて、1391年7月2日、名和顕興が籠城する八丁嶽城は北朝方今川軍の攻撃を受け陥落、良成親王もやむなく一時講和を結び、名和顕興も今川軍に降ります。この時菊池武朝は所在を詳らかにせず、山中に潜んでいたといわれています。(ここら辺も最後に改めてまとめたい。)なるほどこの山深さなら、北朝方に見つかることなく山中に潜むことは容易だろうと感じました。因みに、この八代での戦いが南北朝時代を通じての最後の戦いと言われているそうです。

それでは、先に進みましょう🏃‍♀️

鞍掛城跡

尾根に出ました。案内板はありませんが、この付近が鞍掛城城域と思われます。ここからは歩きやすくてホッ。
尾根の右側には曲輪っぽい?と思われた段々があったので写真を撮ったのですが、写真では全然分かりませんね💦
少し先には比較的広い平坦地が。縄張図に記載のあった「蔵屋敷跡」と思われます。
その先、結構な急坂。滑らないように用心して降る。
新城跡の下に到着。ここを登れば新城跡です!

さて、この時点で文字数が4000字を超えました。本当は山城散策は一つの記事でまとめて八代散策の最終回としようと思っていたのですが、あとがきと八代散策のまとめもボリュームが増えそうですし、今回は一旦ここで切りたいと思います。
次回ご紹介する新城跡は戦国相良氏の築城ですが、丸山、鞍掛城とは違って堀切などの山城の遺構がしっかりと残っていて見応えがありましたよ✨次回も宜しくお願いします❣️(あとがきは次回にまとめて書きます。)

〈To be continued〉

【引用文献】
・八代市『八代城ものがたり』パンフレット p.5
・中井均『城館調査の手引き』山川出版社2016年

【参考文献】
八代市『八代城ものがたり』パンフレット
・中井均『城館調査の手引き』山川出版社2016年
・藤田明『征西将軍宮』熊本県教育会1915年
・南朝の里観光開発委員会 観光ガイドブック
 『南朝の里をゆく』2017年
・菊池市役所『菊池一族歴史さんぽ』冊子
・八代市ホームページ
・Wikipedia

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