見出し画像

古代より続く火山信仰の里🌋阿蘇市歴史さんぽ⑤ 【西巌殿寺】

こんにちは。今回は阿蘇市散策レポートの5回目です。今回はかつての麓坊中に建つ西巌殿寺の散策レポートになります。

麓坊中は阿蘇山上の古坊中が戦国時代に島津勢の兵火によって焼失したのち、加藤清正によって黒川村(現在の阿蘇駅周辺)に再興された僧侶•修験者達の宗教集落です。麓坊中には古坊中時代と同じ36坊52庵が再興され、江戸時代を通して繁栄しました。

現在、麓坊中の各坊は明治の神仏分離で廃寺となりありませんが、西巌殿寺が単独の寺院として存続しています。西巌殿寺境内は、阿蘇坊中の興亡の歴史に想いが巡る静かで美しい場所でしたよ🍃(5500字)

今回の散策地はここ!

かつてたくさんの坊が建ち並んでいた麓坊中の行者通り•仲小路通りの散策レポート(前回分)はこちら↓ 未読の方は是非よろしくお願いします❣️

それでは前回の続き、西巌殿寺仲小路門の前から散策をスタートしたいと思います❣️↓

趣深い西巌殿寺仲小路門

因みにこの仲小路門前の景色は、阿蘇登山の経験をもとに書かれた夏目漱石の小説『二百十日』にも登場します。↓

「おいこれから曲がっていよいよ登るんだろう」と圭さんが振り返る。
「ここを曲がるかね」
「何でも突き当りに寺の石段が見えるから、門を這入らずに左へ廻れと教えたぜ」

※Rose注釈:仲小路門の前の道を左に曲がると、阿蘇登山道 現県道111号線に出ます。

私はこれを機に初めて『二百十日』を読んだのですが、厳格で雄大な阿蘇中岳の描写や、大自然の中に一人迷う心細さ、当時の社会に対する皮肉や批判がふんだんに盛り込まれていて、今の時代でもとても共感を持てる内容だと思いました。それだけでは虚しく寒々しい雰囲気になりそうなところですが、圭さんと碌さんのアイロニックでユーモア溢れる掛け合いと友情が面白さと温かさをプラスし、絶妙な味わいの小説でした。記事の最後に青空文庫のリンクを貼っておきます。短い小説ですので皆さまも宜しければ読んでみて下さい❣️

さて散策に戻りましょう。仲小路門をくぐって中に入ると、杉の大木が立ち並ぶ道の先に本堂跡へと続く長い石段が見えるのですが↓

画面左手、杉木立の横に広い境内がありますので、そちらを見学した後、本堂跡に登りたいと思います!以下、境内の写真です。↓

本坊
境内の東端にある大きな池。鯉もいました。
境内の一角に立つ、学頭坊跡の木標

さてここで例によって、学頭坊跡の木標を引用させていただき、補足を加えて西巌殿寺の説明とさせて頂きます。

         学頭坊跡
貞享四年(1687)東塔南谷禅林院大僧都舜敬法印が学頭坊となり百石加増された。以降、学頭坊は阿蘇一山の衆頂となる。現西巌殿寺と称する。

東塔南谷禅林院大僧都舜敬さんは、熊本藩主が江戸の東叡山門主に人選を依頼して、比叡山から学頭坊として来てもらったお坊さんになります💡

元々学頭坊は阿蘇坊中37坊の内の一つで古坊中の時代から「智行兼備之器量」(この表現カッコいい✨)の人で教義に詳らかなエリート衆徒が務めていましたが、リーダー的な要素は薄かったようです。一方、昔から衆徒間、そして衆徒•行者間の争い事が絶えなかったので、学頭職としての学頭坊の強化を図るために、比叡山から相応しいお坊さんに来てもらったという経緯があるようです。それ以降、阿蘇坊中の衆徒•行者達は学頭坊を一山の衆頂(トップ)としてその命令に従うように藩から下知されたのでした。その後の学頭坊の後任は、藩主が東叡山門主に通達し、衆徒の内から任命されるシステムだったようです。因みに学頭坊の住職による日記(学頭日誌)は江戸時代を通して綴られ、西巌殿寺についてだけではなく、その当時の世相や出来事などを今に伝える貴重な資料となっているそうですよ💡

衆頂•学頭坊の下、江戸時代を通じて繁栄した麓坊中でしたが、全国の他の神仏習合寺院と同様に明治になって受難の時代を迎えます。神仏分離、廃仏毀釈•そして廃藩置県による寺領地の返還によって、各坊は運営が立ち行かなくなり廃寺となり、衆徒•行者達は還俗を余儀なくされました。そんなこんなで麓坊中は一時は無寺となってしまったのですが、かつての坊の人々や有志の方たちが尽力し、阿蘇山上にあった本堂を麓に移し、住職のいなくなった各坊の仏像を学頭坊に集め、学頭坊跡を西巌殿寺という単独の寺院として存続させました。これが現在の西巌殿寺になります。

さて新生•西巌殿寺の初代•二代目の住職さんは県外から迎えた方々だったのですが、二代目の住職•厨亮俊さんが、明治10年に起こった西南戦争で政府軍に味方する行動をとったとして薩摩軍に連行され虐殺されるという痛ましい事件が起こりました。厨住職は阿蘇郡内を積極的に歩き人々に説教して回ったため、住民からの信頼も厚く慕われていたそうです。(それもとても美男だったそう)享年44歳。西巌殿寺では厨住職の命日である4月13日に鎮魂祭を行うようになり、現在では「火渡り」や「湯立て」などの荒行で一年間の無病息災を願う「観音まつり」が毎年開催されていて、一般の方も自由に見学できるそうですよ💡

観音まつりの様子。画像は現地案内板より。
山伏姿の行者さん、めちゃカッコよくて憧れます😆✨

西巌殿寺の説明があらかた終わったところで、本堂跡に登ってみましょう👟

長い石段を登り門をくぐると
こんな広々とした景色が。奥に中岳の噴煙も見えますね。

あれ?本堂はどこなの?と思われたと思いますが、実は本堂は2001年に火災により焼失してしまったのです。本堂の中には寺宝として国指定クラスの重要文化財が数多く安置されていたようで、火災による損失は残念の一言では言い表せませんね😢火災前に訪れてひと目、本堂の仏像をみておきたかったと悔やまれます。

本堂跡には現在礎石だけが残されている。
焼失前の本堂の写真。現地案内板より。

しかし、本堂跡の見所は他にもたくさんあるんですよ!先ずは、上の写真にも載っている市指定天然記念物の大銀杏↓

こちらも紅葉の時期はさぞかし美しいと思われるので、前回ご紹介した長善坊の大銀杏とともに秋にまた訪れたいですね。因みに他にも本堂跡横には檜、下の境内には椎の大樹(いずれも市指定天然記念物)があります。

そして次に、本堂前の両側にずらりとお並びになっている観音様↓ こちらは阿蘇地域に点在する西国阿蘇三十三ヶ所観音霊場の分祀をお祀りしているもので、境内で西国阿蘇三十三ヶ所観音のお参りができるようになっているとのことです。

ユニークで可愛らしいお姿の観音様たち。
手前から第一、第二と光背の上に刻まれています。
いつの時代に造られた仏像か不明ですが、廃仏毀釈の被害にもあわずに綺麗に残っていますね。

そして最後にご紹介したい見どころは、こちらの足手荒神堂ですね〜✨↓

         足手荒神堂
足手荒神とは四百年前、佐々成政との合戦に敗れた御船城主の甲斐宗立が、落ち延びて、村人にかくまわれ、「我が死後はこの地にとどまり、手足の病苦の守り神とならん」と言い残して死んだという伝説に由来する。西巌殿寺の足手荒神も御船より勧請されたといわれている。足手荒神には絵馬の代りに手形や足形に名前を書いて奉納する。
また、このお堂には修験道の開祖役小角や庚申が祀られている。

ここで甲斐氏の名前が出たからには、阿蘇氏とその重臣である甲斐氏について触れないわけにはいきません😤ちょっと西巌殿寺から話がそれてしまいますが、戦国時代末期の阿蘇大宮司と甲斐氏についてのお話にお付き合いください。

以前の記事で戦国時代の天正年間、古坊中が島津勢の兵火により焼き払われ没落したと書きましたが、阿蘇の領主である阿蘇大宮司も島津氏の猛攻を受けて天正13年(1585)降伏します。その時の阿蘇大宮司は若干3歳の阿蘇惟光でした。惟光さんの不運は、先の大宮司だった叔父とその跡を継いだ父、そして無敗の軍師とも言われた阿蘇氏の重臣•甲斐宗運の相次ぐ死でした。そして島津氏に降伏した翌年の天正14年(1586)豊臣秀吉の島津征伐によって島津氏はあえなく降伏します。有能な重臣達の機転によって秀吉に本領安堵された人吉の相良氏(詳細は人吉球磨歴史さんぽを参照)とは異なり、有能な重臣を欠いていた阿蘇氏は時勢の変化にうまく立ち回れず、存続は認められたもののなんと、当主である惟光さんと弟の惟善さん自らが豊臣政権下の隈本城に人質に入るという事態になってしまいます。

九州が秀吉により平定されてすぐ肥後領主として入国したのは佐々成政だったのですが、天正15年(1587)佐々成政の厳しい検地への反発から、肥後の有力国人たちによる国衆一揆が起こります。その国衆一揆に参加していたのが、甲斐宗運の嫡男である甲斐宗立(親英)さんなんですが、重傷を負った宗立さんを助けた村民たちが、彼の死後彼を足手荒神として祀った、ということになります💡因みに国衆一揆が鎮圧された後、佐々成政は一揆勃発の責任を取らされて切腹、その後、肥後北部は加藤清正に、肥後南部は小西行長に与えられました。そして阿蘇惟光は加藤清正預かりに、弟の惟善は小西行長預かりとなります。(長くなるので阿蘇惟光さんと惟善さんのその後は後日、阿蘇神社の記事でお話ししようと思います。)

足手荒神は阿蘇氏の重臣であった甲斐氏に由来することから、阿蘇の西巌殿寺に分霊されたのかなぁ、と推測します。因みに足手荒神は九州と、何故か秋田県だけで信仰されているようですね🤔
因みに私は先日、足手荒神の総本社と言われる熊本県嘉島町の甲斐神社(甲斐宗運と宗立親子を祀る)に初めて行ったんですが、そこには名前が書かれた「手型」「足型」の木の板がたくさん奉納されていました。余力があればいつか記事にしたいです。

さて、そんな足手荒神さんですが、御神体?が調べたけどはっきりしません。おそらく真ん中に祀ってある神像?仏像?がそうなんだろうと推測されますが確証はないです💦↓

そしてお堂の上がり段には、黒曜石の『鏡石』が置かれていて↓

なんでも鏡石を撫でてから体の痛みを感じる部分に触れると痛みが和らぐそうです。私も最近、腰が痛いので(←歳のせい)懇ろにさすって祈願させていただきました。

さて、案内板にも書かれていた通り、このお堂には修験道の開祖•役小角の石像も祀られています。まずは御堂横の説明ポールを引用します。↓

その前に因みに、画像左に写っている墓石は、前述した西南戦争に巻き込まれて亡くなった厨住職のお墓になります。散策時は厨住職のことを存じ上げなくて、誰のお墓だろう?とスルーしてしまいました💦本堂の側にお墓があることからしても、坊中関係者や檀家さんから慕われていらっしゃったことがわかりますね😢今度訪れた際はちゃんとお参りしたいと思います。それでは木標の引用です。↓

     役小角石像・男鬼・女鬼像
修験の生みの親ともいうべき存在がこの役小角である。葛城山で修行中に夫婦の鬼を従えたとの伝説に因んで造られたものである。

そして、その石像がこちらになります。↓

奥の石像が役小角で、手前が鬼夫婦ですかね。おそらく役小角(役行者)は古坊中時代から、行者•山伏の間で信仰されていたんだと思われます。この石像は市指定文化財なんですが、いつの時代に造られたものか知りたくて阿蘇市のページ等で調べたんですが、年代が書かれていなくて不明でした。

御堂の下のコンクリートには、猫ちゃんの足形が😆💕

あとがき

今回記事を作成するにあたり阿蘇坊中と西巌殿寺について学んで、今まで馴染みが薄かった明治以前の神仏習合の宗教集落がどのようなものだったのか知ることができて勉強になりました。同時に、明治の神仏分離、廃仏毀釈などで、当時の寺院関係者がどれだけ翻弄され、ご苦労されたのかということも、具体的に知る貴重な機会となりました。また、西南戦争で薩摩軍の手にかかり亡くなった厨亮俊僧正のことを知った時は、元川尻町奉行の上田久兵衛さんのことを思い出しました。久兵衛さんは薩摩軍を助けた罪を着せられ政府軍から処刑されてしまったのですが、県内各地を散策していると、教科書などでは取り上げられない一般の人々が西南戦争でどれだけ翻弄され、被害を受けたのかということが伝わってきます。戦争とは本当に残酷なものだと感じました。

阿蘇坊中は、古坊中の没落、明治になってからの神仏分離、住職の死、平成の本堂焼失と数々の困難に直面してきたわけですが、明治に完全に廃寺になった寺院も多い中、法灯を繋いでいることが尊いと思うと同時に、関係者の方々のご尽力を感じました。

最後に、私もこれまで麓坊中遺跡と西巌殿寺が阿蘇にあることを知らなかったのですが、歴史ある通りと自然と寺院の織りなす風景は美しく、とても魅力的な散策地だと感じました。(そして観光地化されていないので、観光客も少なく穴場だと思います。)近くにお住まいの方は勿論、県外から阿蘇観光に来られる方も、今回記事にした散策路は1〜2時間程度で周れると思いますので阿蘇駅の待ち時間などを利用して散策してみられてはいかがでしょうか?

次回の阿蘇市歴史さんぽ⑥は、阿蘇神社の主祭神•健磐龍命の御子で阿蘇国造初代の速瓶玉命を祀る国造神社(北宮)の散策レポートを予定しています。次回も宜しくお願いします❣️

本文で触れられなかった阿蘇登山道沿いの東側の門。
車で訪れる際はこの門を車で通って境内に駐車できます。

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

青空文庫 夏目漱石 二百十日 リンク↓

【参考文献•WEBサイト】
•熊本県教育委員会 熊本県文化財調査報告書 
 第49集 古坊中 1980年
•阿蘇町史 第1巻 通史編 2004年
•阿蘇山西巌殿寺HP
•熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト
•熊本県公式観光サイト
•柳田怪明『中世の阿蘇社と阿蘇氏』戎光祥出版 2019年

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?