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雨の泰勝寺跡(細川家墓所)

こんにちは。残暑が厳しくまだまだ暑い日が続きますね🥵しっとり涼しかった梅雨の時期が懐かしい☔️ということで、今回は6月のしとしと雨の日に訪れた熊本藩主細川家菩提寺•泰勝寺跡(国指定史跡)の散策レポートをお届けします。今回はおしゃべりはほどほどに?写真多めで記事を進めたいと思います。雨の中の日本庭園と苔むした墓所を散策している気分を味わって頂けましたら幸いです。(と言いつつ結局4300字💦)

今回の散策地はここ!(熊本市中央区黒髪)

まずは簡単に泰勝寺跡の説明をさせて頂きます。泰勝寺は立田山の麓にあった熊本藩主•細川家の菩提寺です。加藤家の跡を継いで熊本藩主となった細川家第三代•細川忠利が寛永14年(1637)、この地に泰勝院(泰勝院は初代細川藤孝の法名)として建立したのが始まりです。こちらには細川初代藩主藤孝夫妻と二代忠興、その妻ガラシャの墓である「四つ御廟」をはじめ、歴代藩主と住職の墓、細川家にゆかりのある宮本武蔵の供養塔などがあります。本記事では美しい庭園を眺めつつ、「四つ御廟」並びに、仲良く並んだ春山和尚のお墓と伝宮本武蔵供養塔を順路に沿って観ていきたいと思います。こんな感じで↓

今回のルートを青字で示しています。
画像は熊本市パンフレットより拝借

それでは早速、行ってみましょう👟

杉の大木がそそり立つ広い駐車場の一角に、趣きのある立派な門があるのですが、こちらは細川さんの私邸で見学不可です。一般公開されている泰勝寺跡(立田自然公園)入り口は画面向かって右奥になります。
入り口の料金所で200円を払って進むと、前方に大きな池が現れます。
しとしと雨の中、池の縁を四つ御廟に向かって歩いていると、一羽の青鷺が道側から水面すれすれに池を横切って池の奥に着地しました。(画像奥に小さく写ってます。)
順路を挟んで池の反対側は趣のある苔園。説明書によると泰勝寺は昔から肥後の苔寺と言われており白鬚苔、立髪苔、しのぶ苔、かがみ苔等数百種類の苔が集まっている。
苔に覆われた古井戸
立派な杉の大木と、隣は何の木だろう?
道標の矢印にしたがって左折し、四つ御廟に向かいます。
因みに真っ直ぐ行くと10代以降の藩主のお墓があります。
昔から変わってなさそうな趣深い風景。
雨に濡れて艶めく敷石がいい感じ。
四つ御廟へと続く石段の手前には、明治27年に旧熊本藩士704人が奉納したという竹葉石製の巨大な手洗鉢があります。激動の時代を生き抜いた旧藩士達はどんな心境でこの手洗鉢を奉納したのでしょうか。
石段脇にある解説板。
沿革が分かりやすかったので以下に全文引用します。

         四つの廟
 寛永9年(1632)肥後54万石の領主となって入国した細川忠利は、同14年に現在地に泰勝院を建立し祖父細川藤孝(幽斎)と祖母光寿院および母秀林院(ガラシャ夫人)の廟を建立した。泰勝院は藤孝の法名である。忠利は寛永18年になくなって北岡の妙解寺に葬られたが、正保2年(1645)にその父忠興(三斉)がなくなると、当主の光尚は忠興をその夫人秀林院の廟の隣に葬り、ここに4つの廟が出来上がった。
 正保3年に光尚は泰勝院を瑞雲山泰勝寺と改称して独立の菩提寺としたが、綱利の頃山号を立田山と改められた。寺は明治2年の神仏分離によって廃寺となったが、細川家中興の祖である藤孝忠興両夫妻を祀る4つの廟は大切に維持されてきた。しかし第二次大戦後の世情によって手入れが行き届かず大破に及んだ。昭和48年度大修理を実施して旧に復した。廟はいずれもニ間四方の方形造で四隅の鬼瓦はなお古式を伝えており、前面には大正時代に設けられた向拝がついている。中の墓石はいずれも五輪塔形式で、水輪(二段目の球の部分)に比して火輪(笠の部分)が小さく江戸初期の特徴を示している。

ここで例によって少し補足説明しますと、細川家の墓所はこちらともう一つ、熊本城下にある妙解寺跡の墓所があります。案内板にも記載がありましたが、妙解寺の墓所には三代・細川忠利夫妻をはじめ歴代藩主、子女の廟があります。また、細川忠利の殉死者と森鴎外の「阿部一族」の主人公・阿部弥一右衛門の墓もあります。妙解寺は新町に住んでいた頃一度訪れましたが、また行く機会があれば記事でご紹介したいと思います。

霊廟へ登る石段と竹の手摺、門も趣きがありますね〜
門の上には「仰高」の扁額
門をくぐると手前から奥に向かって藤孝公、光寿院、忠興公、秀林院(ガラシャ)のお墓が並んでいます。
こちらは一番奥にあるガラシャさんのお墓です。
ガラシャさんのお墓のみ立派な解説板付きのため(人気の高さがうかがえます)、以下に引用しますね。

        細川ガラシャ
ガラシャは明智光秀の娘で、本名を玉子という。
織田信長の仲立ちで細川忠興の妻となったのは、天正6年(1578)16歳の時であったが、天正10年(1582)本能寺の変で父光秀が主君の信長を討ったため、玉子は離別され丹後味土野の山中に幽閉された。その後、豊臣秀吉の許しで復縁して大阪玉造の屋敷に戻り、天正15年(1587)にキリスト教の洗礼を受け、「ガラシャ」の洗礼名を授けられた。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを前に忠興が上杉征伐に従軍中、石田三成らは徳川に味方する諸侯の夫人たちを大阪城内に集め人質に取ろうとした。玉子はそれを拒み、「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」の辞世を残して大阪玉造邸に火を放たせ、38歳の生涯を終えた。

玉子さんの辞世の句、彼女の強さを如実に表していますよね。一度聞いたら忘れられないほどのインパクトあります。入り口料金所で貰った三つ折りパンフレットの表紙にもこの句が書かれていましたよ。玉子さんと忠興さんの間には外から見たら仲がいいのか悪いのか分からないエキセントリックな逸話がたくさんあるようですが、私はなんだかんだで2人の間には強い愛情の結びつきがあったように感じますね。私には玉子さんは天下一気が短いと評された忠興さんの上をいく強さがあったように感じられ、忠興さんの妻は彼女じゃないと務まらなかったんじゃないかと感じます。玉子さんと忠興さんは戦国最強のパワーカップルだと思いますね。(←多分パワーカップルの使い方間違ってる)

ガラシャさんのお墓です。藤孝公、光寿院、忠興公のお墓と同じ形式の巨大な五輪塔です。地輪には杓で水をかけた跡がありました。
屋根の角には立派な鬼瓦
ガラシャさんのお墓の横にはガラシャさん愛用の手水鉢。
忠利さんが母君を偲んでこちらに運ばせたのでしょうか。

慶長5年(1600)7月17日、石田三成から人質として大阪城入城を迫られたガラシャ夫人は、老臣•小笠原少斎に介錯させて命を断った。その直前にこの手水鉢を水鏡として最後の身じまいをしたと伝えられている大阪の玉造邸跡から移したものである。

ふと、この手水鉢に水を溜めて覗き込んだら玉子さんに逢えるんじゃないかという気がしました。
ガラシャさんのお墓の横に更に奥に続く通路があります。
この先に歴代住職の居宅跡と墓所があります。
低い門の軒を腰を屈めて進むと
更に石垣の門。この門で霊廟のある聖域と現世の住職の居住空間を区切っていたのかな。
雰囲気あってちょっと怖いながらも先に進みます。
突き当たりの石垣の上が歴代住職の居宅跡である「棲霞軒跡」です。
突如、私の真上でカラスが強く鳴きました。 竹の葉が鬱蒼としていて姿は見えず。まるでカラスが棲霞軒跡を守っているかのように感じたので、早々と退散しました。
そして竹垣と石垣の間の細い通路を進み、
石段上の少し高くなった広場が歴代住職の墓所です。
こちらが晩年の宮本武蔵と親交が深かった春山和尚のお墓です。「お会いできて光栄です。失礼ながら墓石の写真を撮らせて頂きますね🙏」
そして春山和尚のお墓の横に建っているのが宮本武蔵のものと伝わる供養塔です。

解説書によるとこの供養塔は古い五輪塔の残欠を集めたもので、いつからともなく武蔵の供養塔と呼ばれているものだそうです。宮本武蔵は寛永17年(1640年)熊本藩主・細川忠利に招かれて晩年を肥後(熊本)で過ごしましたが、泰勝寺の春山和尚を無二の友とし、その薦めに従って一心に坐禅に取り組んだそうです。仲良く並んで建つ春山さんのお墓と供養塔を見て、後世の人々がこれは武蔵さんの供養塔だと考えたのも納得ですよね💡春山さんは武蔵さんが肥後で過ごしていた時まだ20代の若者だったと考えられますが、ピュアでチャーミングな御老人だった武蔵さん(肥後での晩年のエピソードからの私の勝手なイメージです。)のことですから、若い春山さんのアドバイスにも対等に真剣に耳を傾けたことでしょう。私はこの仲良く並んだお墓と供養塔を見て、2人が楽しそうに禅問答をしている姿を思い浮かべましたよ✨
その後武蔵さんは正保2年(1645年)に亡くなり、泰勝寺で藩葬として葬儀が行なわれました。
武蔵さんが亡くなった時、春山和尚に成仏するよう引導を渡してもらったという「武蔵の引導石」も泰勝寺の近くにあるようです。(私は今回時間の関係で見学していないのですが。)
因みに武蔵さんのお墓がある熊本市北区の武蔵塚公園も今年の2月に散策してきたので、おいおい記事にしたいと考えております。

※晩年の武蔵さんが五輪書を著した霊巌洞の散策記事はこちらです。↓記事の最後にリンクを貼っている吉川英治氏の随筆には、吉川氏が泰勝寺跡を訪れた際のエピソードなども書かれていますので、ご興味のある方は是非ご一読ください。

あとがき

この日の泰勝寺跡は雨天で薄暗く、しかも墓所ということでちょっと怖いながらも雨の音、鳥たちの囀り、立ちのぼる緑の匂い、しっとりとした湿気などを全身で堪能しリフレッシュできました。庭園全体が昔のままの雰囲気で、またこの日は私以外周りに誰もいなくて、時空のラビリンスに迷い込んだような不思議な感覚を覚えました。そして今回の散策では特に細川家の歴史、そして忠利さんと光尚さんの両親•祖父母•曽祖父母への追慕の念、忠興さんと玉子さんの夫婦愛、武蔵さんと春山和尚の友情など人と人との間の愛情を強く感じました💖今回は記事で取り上げませんでしたが、こちらには利休七哲にも数えられた細川忠興の原図に基づいて復元された茶室「仰松軒」があります。(現在も茶会などで使われているそう)茶室前には京都で細川忠興が愛用し、豊臣秀吉や師・千利休も使用したと伝えられる手水鉢もありますよ💡泰勝寺跡を訪れた際はあわせて見学してみて下さいね❣️

古い手水舎の中に咲いていた小さな睡蓮の花。帰る頃には花が閉じていて、その姿も可憐で可愛らしかったです💕

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

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