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宮本武蔵が五輪書を著した洞窟 雲巌禅寺の霊巌洞🪨

こんにちは。今回は、今年3月に熊本市西区の金峰山(きんぽうざん)山麓にある雲巌禅寺の霊巌洞を訪れた際のレポートです。霊巌洞は、熊本藩主・細川忠利の招きで寛永17年(1640年)に肥後にやって来た晩年の宮本武蔵が、兵法「五輪書」を記した洞窟として有名で、全国から多くの武蔵ファンが訪れているそうです。私が訪れるのは2回目ですが、ここは熊本でもオススメの史跡なので、皆さんにも是非ご紹介したいと思います!

※南北朝八代編をご覧の皆さまへ
宮本武蔵が熊本藩主・細川忠利の客分として迎えられるきっかけは八代にありました。かの有名な「巌流島」の試合当時、細川忠興(忠利の父、後に八代城主)が豊前小倉城主でした。その時の家老・松井興長が忠興没後、初代八代城城代となるのですが、当時は巌流島の試合の立会人をつとめたり、なにかと武蔵の世話をしたりして、武蔵とは昵懇の間柄だったそうです。武蔵はその時の縁をたよって興長に手紙(暗に就職を依頼する)を出し、この手紙が出されて一ヶ月足らずで細川藩への仕官が実現しています。松井興長の口利きがあったことがうかがえますね。また、武蔵の死後に著された武蔵の伝記ともいうべき「二天記」も八代で綴られたそうで、その著者・豊田又四郎正剛の墓が八代古麓の春光寺にあるそうです。また、南北朝時代、菊池武朝と良成親王が菊池陥落後の数年間西征府を置いた「たけの御所」は同じこの金峰山山麓にあったと言われています。


それでは今回も散策実況形式でご紹介していきたいと思います!雲巌禅寺の上方にある、「勝ち運を呼ぶ武蔵像」の前の駐車場に車を停めて寺に向かいます。この武蔵座像は、平成15年のNHK大河ドラマ「武蔵」の放送記念に建てられたもので、広い駐車場と綺麗なトイレも併設されています↓

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因みにお寺のすぐ脇にも専用駐車場があるのですが、そこまでの道が細くて急坂なので、運転に自信の無い私は、少し歩いてもここに停めた方が安心😅では、その寺までの道を下っていきます👟道の脇に植えられた早咲きの桜が可憐でした🌸

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坂を下るとすぐ雲巌禅寺です。(写真右手が🅿️)
道の先に山門入り口があります。
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お寺の入り口に立つ仁王像✨
初めて来た時も圧倒されました。
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お寺の前からの里の眺め。武蔵さんの時代からほぼ変わってなさそうな素朴な里の風景です。
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石段を上がると本堂です。
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本堂

本堂の右手には、日本語、中国語、英語、韓国語で書かれた真新しい案内板が。五輪書は外国語に翻訳され海外でも愛読されているそうですから、外国人もよく訪れるのでしょうね💡以下に案内板内容を引用します↓

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雲巌禅寺は金峰山の西麓にあり、南北朝時代(1336〜1392年)に日本に渡来した元の禅僧・東陵永璵(とうりょうえいよ)が建立したと伝えられる曹洞宗の寺です。九州西国三十三観音第14番霊場としても知られています。
その裏山には、晩年の5年間を熊本で過ごした宮本武蔵が、兵法書「五輪書(ごりんしょ)」を著したと言われる霊巌洞という洞窟があります。
霊巌洞の歴史は寺より古く、言い伝えによれば異国から観音像を運んでいるときに舟は転覆しましたが、観音像だけは板にのって流れ着き、霊巌洞に安置されたといいます。この洞窟には武蔵だけでなく、平安期の歌人・桧垣(ひがき)も訪れています。雲巌禅寺から霊巌洞にいたる岩山を削った細道には、五百羅漢が安置されており、さまざまな表情を見せてくれます。

それでは早速、霊巌洞に向かいましょう❣️
本堂の横に料金所が有るので、そこで300円払ってから先に進むとすぐ、屋根付きの展示スペースがあります。

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ここでちょっと脱線させてください🙇‍♀️写真左下に雉の剥製?があるじゃないですか、雉が武蔵とゆかりが深いのかなんなのか説明書をよく読まなかったので分からないのですが、何と翌日、熊本市内の畑で雉と遭遇したんです😳畑の菜の花が綺麗だな〜と思って写真撮ろうと車を停めたら、横に立ってました(笑)何のシンクロでしょうか。雉なんて滅多に見ないので大興奮で、車から降りて写真撮ろうとしたら、雉が猛ダッシュで逃げたので、慌ててシャッターを連写した写真がこちら↓

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車の中からそっと撮ればよかった。。それにしても雄の雉って孔雀なみに美しいんですね🦚
失礼しました。では、散策実況に戻ります。

以下、展示品の一部をご紹介します。

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写真の木刀は「巌流島で武蔵が使用したとされる木刀」と説明書があります。
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五輪書の写本の横には「武蔵愛用の海鼠鍔」が展示されています。
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武蔵が描いた画の写し。「枯木鳴鵙図」(右から2番目、本物は熊本市の島田美術館に展示)と「達磨図」(右端)

展示スペースを過ぎて、霊巌洞へ続く道は、岩肌を削っただけの風情なので、手すりはありますが、用心して歩く必要があります。(雨の日は滑りそう&ヒールやパンプスは無理)

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こういった岩肌の道が霊巌洞まで数百メートル続いていますが、その道中には岩山に五百羅漢がずらりと並んでいらっしゃいます。(首が落ちてしまっている像も結構ありますが💦)

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1779年から奉納されたとあるので、武蔵さんの時には五百羅漢像はまだなかったということですね「五百羅漢の一つ一つの姿を注意してみると必ず身内にそっくりの顔を見出すことができるとの言い伝えがある」か〜、と何気なく眺めながら歩いていると、横座りの羅漢様発見↓ だいぶリラックス感あるな〜♨️

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そうこうしているうちに、眼下に霊巌洞が見えてきました❗️巨大な宝塔の先に霊巌洞があります↓

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霊巌洞の手前には、巨大な宝塔と石碑がそそり立っている
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巨大な石碑。以下に内容を引用。

       二天一流の由来
二天一流は世に言われている二刀流ではありません。剣聖宮本武蔵は生涯を行雲流水の求道の旅で終わり三十才の前半を諸国の兵法者と戦い、五十一才に至る約二十年は史実的に全く空白で東西に剣客の旅を続け、寛永十七年に肥後の細川忠利侯に招かれ細川藩軍事顧問として肥後千葉城に居住し、忠利侯の命をうけ「兵法三十五箇条」を献上しました。その二年後に兵法三十五箇条を骨子とした五輪書をこの霊巌洞に籠り執筆し正保二年五月十二日寺尾勝信に伝授、寺尾信行には三十五箇条を授与し師範家相続の証としました。
 以来二天一流は五輪書で確立し師範家は五流派に分かれ藩外不出として栄え江戸末期には、野田、山尾、山東の三流派のみ継承されその後明治から昭和に渡り断絶あるいは再興し、県外流出の流派もあり、現在では師範家は野田派のみ連綿として熊本に存続しております。野田派では毎年五月十九日の武蔵の命日に霊巌洞で、六月十二日の寺尾信行の命日に寺尾信行の墓前で、五方の形、二刀太刀、一刀太刀を奉納し□師の霊を弔らい道場では朝鍛夕練の精神で二天一流の鍛錬を続けております。
野田派 二天会会長 大沢厚男記 門人一同 

そして霊巌洞の全体像はこんな感じになってます↓
圧倒されるような厳かな霊気を感じます〜😵

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階段を上がると、洞窟の中はこんな感じ。

武蔵がこもった洞窟と聞いて、最初は本当にただの洞穴的なイメージだったのですが、綺麗な階段も付いてるし、洞窟の中は板張りで快適そうですよね😳(当時こんな綺麗な板張りだったは不明ですが。)以下、霊巌洞の内部写真です↓

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入り口右手の岩壁には、寛永16年に彫られた細川家家老の逆修。戦国時代の武将・鹿子木寂心の逆修もあるようなので、昔からこの洞窟は信仰が厚かったようですね。
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右奥には、大仙哲翁という方が記した石板。以下引用。

千数百年の昔より、この霊巌洞に安置されているのは石体四面の馬頭観音である。中央の岩壁に『霊巌洞』とあるのは、雲巌寺の開祖、東陵瑛璵(1285〜1365)の篆刻である。
 宮本武蔵が、ここ霊巌洞に参籠し五輪書を書き始めたのは寛永二十年(1643年)彼が六十才の秋のことであり、その後1645年5月12日門人、寺尾孫氶勝信に『五輪書』を授けた。
「神佛は尊し、されど神佛を頼まず」武蔵がその波乱に満ちた生涯を静かにふりかえり、剣の道をまとめあげるには、絶好の場所であったらう。

岩壁に書かれた『霊巌洞』の文字、見えますか?
鎌倉時代に彫られた文字なんですねー😲
洞窟奥には岩戸観音(馬頭観音)が安置されている。
武蔵さんの命日5/19には奉納演武が行われるそう。
歴史を感じさせる重厚な石の柵
そして洞窟内中央にある存在感抜群の岩。
武蔵さんもこの岩の上で座禅を組んだでしょうか?
人為的に作られたっぽい窪みには灯りを置いたのかな?

ここで、霊巌洞での武蔵さんの興味深いエピソードを2つ、ご紹介したいと思います。

①坐禅中に現れた光明を斬る

武蔵は晩年、霊巌洞に行き、坐禅をした。坐禅をしていたとき、雲の間から光が見えた。それは仏の光明のようであった。武蔵は剣を抜いてその光を斬った。(中略)武蔵は万里一空を見た。迷いの雲の晴れたところを見た。それが武蔵の悟りであった。かくして、「仏神は貴し、仏神をたのまず」という「独行道」の言葉が生まれたのである。

宮本武蔵著/鎌田茂雄全訳注『五輪書』p.22

武蔵さん、坐禅中に現れた光を斬っちゃんたんですか〜😨修行中に輝く光が自分に迫ってきた、というエピソードは空海さんも体験しているようですし、(by『三教指帰』)決して悪いものではないと思いますけど。。しかし、一切の甘えを捨て、自分自身だけを信じて生きてきた武蔵さんらしいエピソードだと感じました。

②死期を悟り霊巌洞に籠る

正保二年(一六四五)の春頃より、武蔵の病いは次第に重くなり、四月になり、自から再起不能を悟るや、家老衆に一書をおくった。その後、岩殿山の霊巌洞に行き、静かに死期を迎えようとしたが、城下の居宅に連れ帰られて病いの介抱を受けた。

宮本武蔵著/鎌田茂雄全訳注『五輪書』p.26

こうして、数年、彼の独慎と、瞑想がつづいた。徐々に、彼は死期のちかづきを、悟っていた。ところが、その頃、
 ――世間、奇怪の説あり
 と、一書に見える。つまり、霊巌洞中の彼のすがたや、山里の家から見える山中の燈火に、百姓たちが、いろいろ怪しんだものだろう。風説は、城下にも高かったらしい。そこで、藩老の長岡監物が、鷹狩に事よせて、武蔵の起居を、ここへ訪ねに来たりしている。おそらくは、世間の誤解もあるし、武蔵の老体を案じて、千葉城の宅へ戻るように、諫めたものとおもわれる。
 だが、武蔵は、ついに、ここの洞中で、座禅したまま死んだのである――とは、ここの岩殿寺で云い伝えていることである。もっとも、家僕として、増田総兵衛、岡部九郎右衛門の二人が、朝暮に、何かの世話はしていたらしく、すぐ二人が、武蔵を、熊本の私邸まで、背負って帰った――そして数日の後に、息をひきとったので、岩殿山では、まだ絶命はしていなかった――ともいうのである。
 後者の説の方が、前後からみて、どうも真実らしい。いずれにせよ、彼の五輪書は、こういう環境と、彼のこういう心態のもとに、書かれた。

 吉川英治 随筆 宮本武蔵 青空文庫

自身の死期を悟って、霊巌洞で一人静かに死を迎えようとしたのも武蔵さんらしいですよね。よく言われますが、人間生まれてくる時も、死ぬ時もひとりなわけですから、共感するところあります。ただ、それを静観できず、必死で説得して居宅に連れ帰ろうとした世話役の人たちの気持ちも理解できますよね。私が弟子だったらやっぱり、「師匠、どうか無茶なことはやめて邸宅にお戻りください!」って懇願すると思います。

霊巌洞内部から外を眺めた風景

あとがき

宮本武蔵は寛永17年(1640)熊本藩主・細川忠利の招きで熊本へ入り、客分として遇されます。寛永18年(1641)2月、忠利公の命によって「兵法三十五箇条」の覚書を書きますが、奉呈してまもなく、忠利公は54歳で亡くなります。その後の寛永20年10月、武蔵は自分の余命の残り少ないことを悟って、霊巌洞にこもり『五輪書』を書き始め、その完成に2年を費やし、完成後、1ヶ月ほどして62歳(64歳とも)で没したそうです。また、武蔵は亡くなる7日前に自戒の書である『独行道』を書きましたが、それは武蔵の遺言ともいうもので、彼の生き方の本当の姿をあらわしているといわれます。『五輪書』については、私は武道はやらない&まだ未熟者で理解が難しい部分も多く気の利いたコメントはできないのですが、『独行道』は簡潔で分かりやすいので、以下にご紹介しますね。
※伝えられているものには、独行道二十一条というもあり、十九条、或は十四条など、まちまちだそう。以下は吉川英治氏が採用しているものを引用↓

         独行道
一、世々の道にそむくことなし
一、身に、たのしみを、たくまず
一、よろづに依怙(えこ)の心なし
一、身をあさく思ひ、世をふかく思ふ
一、われ、事において後悔せず
一、善悪に他をねたむ心なし
一、いづれの道にも、わかれを悲まず
一、れんぼの思ひに、寄るこゝろなし
一、わが身にとり、物を忌むことなし
一、私宅においてのぞむ心なし
一、一生のあひだ、よくしんおもはず
一、こゝろつねに道を離れず
一、身をすてゝも名利はすてず
一、神仏を尊んで、神仏を恃(たの)まず

吉川英治 随筆 宮本武蔵 青空文庫より

以上、自分に厳しい武蔵さんの姿をみてきましたが、独行道は自戒の書ということで逆に武蔵さんの人間らしさも見えてきますね。実際、熊本に来てからの数々のエピソードを知ると、私は武蔵さんのイメージが変わりました。

例えば、「枯木鳴鵙図」のような可憐な鳥の絵を描いた武蔵さん、風呂嫌いだった武蔵さん、親子ほど歳の離れた泰勝寺(細川家菩提寺)春山和尚を無二の友とし、その薦めに従って一心に坐禅に取り組んだ武蔵さん、晩年の知己と頼んでいた細川忠利公と死別した後は、世を捨てて詩歌、茶、書、彫刻などに没頭した武蔵さん、細川家を守るため遺骸には六具の甲冑を着せて、御参勤の街道のかたわらに埋めてほしいと遺言した武蔵さん。(そのお墓は熊本市北区の武蔵塚公園にあります。)その他諸々のエピソードからも、晩年の武蔵さんはピュアでチャーミングな御老人のイメージしか湧いて来なかったのですが、はたして、昨日の地元のニュースで新たな武蔵の史料が見つかったと言っていて、それによれば、武蔵さんは近所の人の荷物を預かるような、「気のいいおっちゃん」だった。そして、忠利公の文化人の会に招かれて意見を交わすような、人の間にあり快活な性格の兵法家だったそうです。
宮本武蔵は剣の道に生きた孤高の人というイメージでしたが、晩年は知己の人達に囲まれ、五輪書を執筆できる静かな環境も整っていて、熊本で幸せな余生を送れたんじゃないかなと感じました。

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【引用・参考文献】

・宮本武蔵著/鎌田茂雄全訳注『五輪書』講談社2002
・吉川英治 随筆 宮本武蔵 青空文庫

・熊本県HP

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