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九州南朝の西征府が置かれた都🍃菊池一族の本拠地 菊池市歴史さんぽ⑤ 【菊之城跡他】

こんにちは。今回は菊池散策レポートの5回目です。熊本県菊池市は鎌倉時代後期から室町時代にかけて栄えた菊池一族の本拠地で、南北朝時代には征西将軍宮・懐良親王を迎え、九州南朝の征西府が置かれた都市です。菊池散策レポート5回目では、守山城(現菊池神社)に本城が移される以前の菊池氏の拠点・菊之城跡とその近くにある菊池氏初代・菊池則隆公墓所、そして17代菊池武朝創建と言われる北宮阿蘇神社をご紹介します。

菊池一族の最盛期を築いた15代菊池武光公とその時代を説明した【予告編】を事前にご覧いただけますと、今回の散策記事をより一層楽しんでいただけると思います↓(宜しければ菊池散策記事①〜④も読んで頂けると嬉しいです♪)

散策ルート紹介

本記事中の散策ルートをオレンジ線で表しています。散策マップは、菊池神社で頂いたものを拝借

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オレンジ線が本記事の散策ルート。
青の丸囲みは菊池散策記事①〜③までの散策ルート。
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本記事ルート拡大図

今回は、前回ご紹介した菊之池からスタートし、菊池則隆公墓所→菊之城跡→国道325の下をくぐり菊池川沿いを東に歩き、北宮阿蘇神社までを散策します。それでは早速行ってみましょう🏃‍♀️

菊之池から歩いてすぐ、道の反対側に木が鬱蒼とした、石囲いされた一角が見えてきます。きっとあそこだ💡

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立派な菊池神社頓宮とお墓が直角に並んでいます

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菊池則隆公墓所

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お墓の横には立派な樟の大樹。昔の人が、後世の人々が則隆公のお墓を見失わないようにと墓標として植えたのでしょうね。武光公墓所や武重公墓所の脇にも樹齢が高そうな大樹が立っていました。それでは、菊池氏初代・則隆公墓所の詳しい説明を案内板から引用します↓

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 藤原則隆は太宰府天満宮領赤星荘園の荘官として延久ニ年(1070)、この肥沃で交通の便のよい菊池平野の一角、深川に拠って居城を構え、地名をとって菊池を氏とした。
 深川は穀倉地菊池の中心であり、当時は佐保川から菊池川本流に通じる交通の要衝でもあったので、この地を拠点に勢力を伸ばし、早鷹天神(菊池市赤星)・老松天神(西合志町弘生)・山﨑天神(熊本市)・田口天神(甲佐町)および玉名市の川崎・高瀬・津留の天神を勧請した。これらは菊池氏が荘園の防備・保全のために勧請した荘園神でもあり、荘園内で不法を働く荘官・住人に対し天神の怨霊の力を示すものでもあった。この地には南北朝の頃まで累代居館が続いた。
 則隆の墓は文化15年(1818)に創建され、明治・大正の工事を経て現在の状態になった。

菊池氏初代の則隆さんは、太宰府天満宮の荘官だったんですね💡以前は藤原氏の血筋とされていたそうですが、近年は地元の土豪が大宰府長官職にある藤原氏に仕えることによってその姓を賜った、という見方が通説だそうです。荘園を守るために天神を勧請したというのも興味深いですね。平安時代の当時は天神(菅原道真)の怨霊を世間は恐れていたのでしょうね。

因みに15代武光さんから見ると、初代の則隆さんも太宰府と縁が深かった、そして父の武時さんは後醍醐天皇の呼びかけに応じて太宰府を攻撃して討死していますから、太宰府には思い入れが深かったものと思われます。そんな折、九州の中心である太宰府制覇を目指して懐良親王が九州下向・菊池入りされるわけです。二人は一丸となって太宰府を目指したことでしょうね。(1359年、懐良親王と武光さんは大保原合戦に勝利し太宰府を攻略、1361年、ついに太宰府に西征府を置く事に成功します。)

それでは次に、則隆さんが築いた菊之城跡に向かいましょう👟

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墓所からは道路を挟んで小道が続いています。立派な頓宮あったし、お祭り行列などか通る(通っていた)のかな?
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散策路の南側は美しい麦畑。

菊之城跡は先程の墓所からあまり離れてないはずなのに、城跡らしき遺構が一向に見つかりません💧こんな時は地元の方に尋ねるのが一番ですね!
早速向こうから自転車で通りかかったおじ様にお声がけしたところ、親切に教えて下さいました。(菊池の方々、優しい😊)

おじ様:「多分あそこですよ。最近(見にくる方)多いみたいですね。」

菊之城跡

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え〜、あそこ〜⁉️どう見ても畑にしか見えないけど、確かに案内板が見えるような。(写真中央右寄り、赤白タワーの横)こりゃ、一人でたどり着くのは無理でしたね😅案内板付近のアップ↓

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案内板の所まで行って見ましょう❗️

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案内板は写真左寄りにあります。
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畦道っぽい道を通って向かいます。
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菊之城跡の碑
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案内板の文字が消えかかっていて読めないので、菊之城跡の詳しい説明は菊池市HPから引用させて頂きます↓

別名を菊池古城、深川城、雲上城といい、大宰府の荘官として赴任した藤原則隆が 延久2年(1070)に館を構えた場所で、城としての備えをある程度持っていたと考えられる。当時の交通手段は主に舟運に頼っていたが、堤防がなかったときの自然の流れでは、この辺りが舟着場であったと思われる。周囲の地形は、この右岸を要とした穀倉地帯が扇状に広がっており、舟着場のある対岸の赤星荘も一族の支配地であった。 この城はある程度の防備機能を有していたとされるが、本来の守備には適していな かったようで、南北朝の騒乱期に入り14代武士のときに、合志幸隆によりこの城が奪われてしまう事態が起こるが、武士の兄武光が奪還して15代を継承した。その後16代武政の時に、より守備に適した守山城に本拠地が移された。 城跡から西に200mくらいのところに菊池初代則隆の墓があり、さらにその少し先に 「菊之池」があることから、当時の館の縄張りはその辺りまで広がっていたことも考えられる。

菊池市HP 市指定文化財〈史跡〉菊之城跡より  

ここが武光さんが当主の座を射止める事になった「菊池本城奪還」の舞台なんですね💡現在ではそうとは想像できないほど、畑と一体化してのどかな雰囲気です。(確かに守りには適してなさそう。。)因みに、当主の座を追われる形になった14代武士(たけひと・12代武時の正嫡)さんは、以前から自分は当主の器ではないと漏らしていて、武光さんに家督を譲った後出家して全国を行脚したそうです。1376年に菊池に戻った時には家督を譲った武光さんは既に亡くなった後、17代武朝さんの時代なんですよね。武士さんはとても長寿だったようで、墓所は八代市のお寺の裏山にあるそうです。やはり、八代市は菊池一族とも縁の深い南朝の都市のようです。散策せねば。。

ちょっと脱線してしまいましたが、これから菊之城の周囲を見ていきましょう❣️

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案内板の下付近。石垣が見えます。
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人の背丈ほどの段差あります。
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城跡周辺の堀。小さくて用水路みたい。
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小さいけどちゃんと石垣
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北側から城跡を眺めた図。二段になってますね。

それでは次に、本記事の最終目的地・北宮阿蘇神社に向かいましょう👟

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菊池橋とそれに続く国道325の下をくぐります。
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川沿いの風情のある道を歩きます。写真左の一番高い木の下付近が北宮阿蘇神社です。
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神社の道向かいには駐車場と船着場
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階段は新しいけど両側の石垣は古そう。

そして、この船着場の斜め道向かいに、北宮阿蘇神社は鎮座しています。

北宮阿蘇神社

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北宮阿蘇神社は17代武朝が阿蘇大明神を勧請し、菊池の郷社として創建したものと言われています。木製の鳥居や楼門は近年のものの様ですが(熊本地震で被害を受けたのかも)、手前の石段や石垣(写真ないですが)は当時の面影を残していますし、前面は美しい菊池川で、落ち着きのある素敵な雰囲気です✨鳥居の前に立つと、急に風が吹いてきて、木々がザワザワし始めました😳

ここで北宮阿蘇神社の詳しい説明を菊池市HPと、パンフレットより引用します。(現地案内板の記載は分かりづらかったので)

17代武朝が建立したと伝えられている神社で、創建以降、代々菊池家の信仰のよりどころとなっていました。懐良親王が使ったとされる軍配も保存されています。

パンフレット冊子「菊池一族歴史さんぽ」p.32

菊池一族関連の神社と言えば、まずは菊池神社を思い浮かべる方も多いかもしれませんが、菊池神社は明治時代に菊池一族を祀るために創建された神社であり、彼らの活躍した時代の氏神は菊池市北宮にある北宮阿蘇神社でした。(中略)当時、菊池と阿蘇大宮司家の繋がりは非常に強く、15代武光も数か所に阿蘇神社を勧請しているようです。(後略)

菊池市公式ウェブサイト「菊池一族」北宮阿蘇神社

因みに懐良親王の軍配、見てみたたかったですが、神社の社宝ということで、一般公開は当然されていませんでした。それでは、境内を散策してみましょう!

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拝殿
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拝殿にお参りします。
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拝殿と本殿を横から望む
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立派な土俵。上にはお相撲さんの手形が見えます。
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楼門から菊池川を望む
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鳥居前には「菊池一族御刀洗所 万病の神水」の石碑と菊池川へと降る石段。昔は神社で戦勝祈願してここから船で出航したのかな?

因みにこちらの神社さんでも辺りに芳しい香が立ち込めていました。どうやら下の写真の木の花の香りの様です↓ 植物に詳しくないのが悔しい💦何の木か分かる方いらっしゃれば教えてください🙇‍♀️

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あとがき

ここでは次回の記事のプロローグも兼ねて、17代菊池武朝さんについて少し書きたいと思います。武朝さんは、太宰府西征府陥落後の1373年に祖父武光さん(15代)を、続いて翌年には父武政さん(16代)も亡くし、若干12歳で家督を継ぎ17代当主となります。武朝さんは1374年今川了俊率いる北朝方に押され懐良・良成両親王を奉じて菊池に退却します。(この年の年末頃、懐良親王は良成親王に征西将軍職を譲ったとされる。)翌1375年、肥後まで攻め込んだ今川軍と菊池水島の台(うてな)城で対峙しますが、今川軍の内紛にも助けられ、激戦の末今川軍に勝利します。(水島の戦い。詳細は次回)この時武朝さん13歳!おじいちゃんとお父さんを立て続けに亡くして心折れそうな状態でよく頑張りました😢

水島の戦いで武朝軍が陣を置いた、菊池十八外城の一つ、台城周辺を次回の記事ではご紹介したいと思います。次回も宜しくお願い致します!

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「菊池一族ことはじめ」パンフレット冊子p.12の武朝さんと良成親王のイラスト。2人については記事の最初にリンクはっています【予告編】で詳述していますので是非。

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【引用HP・引用文献】

・菊池市公式ウェブサイト「菊池一族」

・菊池市役所 政策企画部 菊池一族プロモーション室「菊池一族歴史さんぽ」パンフレット冊子

【参考HP・参考文献】

・菊池市公式ウェブサイト「菊池一族」

・菊池市HP

・菊池市役所 政策企画部 菊池一族プロモーション室「菊池一族ことはじめ」パンフレット冊子

・菊池市役所 政策企画部 菊池一族プロモーション室「菊池一族歴史さんぽ」パンフレット冊子

・菊池夢美術館「歴史の栞 菊池一族」パンフレット

・菊池市「菊池遺産ガイドブック2021」

・ミネルヴァ日本評伝達『懐良親王』森茂暁著 2019年 ミネルヴァ書房

・『皇子たちの南北朝』森茂暁著 1988年 中央公論社

・マンガ日本の古典「太平記」上中下巻 さいとう・たかを著 中央公論新社

【画像引用】

・菊池地域振興局総務振興課 菊池一族 歴史を巡る散策マップ

・菊池市役所 政策企画部 菊池一族プロモーション室「菊池一族ことはじめ」パンフレット冊子


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