日本に希望を持てない理由ー依存と自立について
コロナウィルスが世界中で流行していて、コロナをきっかけに世界の安全、平和を願い、個人レベルでお互いを気遣い合う社会にするか、自分さえ良ければよい、という空気を作り出すのか。
国のリーダーのあり方が問われている。同時に、私たちも個人レベルで、良い隣人として、家族や友達、その枠を超えて見知らぬ他人に対しても配慮できる人であるかどうか……関心のあるところかもしれない。
他の国のリーダーが語ることを、そのまま引用して、Facebookにシェアした結果、数えきれない「いいね」をされている投稿を目の当たりにした。こんなこと書くと、私がいいねをされなかったから書いているのでは?と勘違いされることも、どこか違和感がある。
なんだろう、Facebookの投稿って正直難しい。。。何が良いねでそうでないのか。人それぞれ良いなと思った事の良さを優しい気持ちで見つけて、共感の気持ちで「いいね」する人もいれば、投稿した本人がコミュニティの中で魅力的な人と映っているから、内容もよく見えて「いいね」をする人。様々だ。
言わんとすることは同じでも、発言者によって発言の影響力が違う
ということには、かなり違和感がある。
結局、人を見て「良いね」かそうでないかを決めているのではないか?そこまで厳密に考えなくても良いのかもしれない。
雑誌に書いてあったことを、引用するか、先進国のリーダーが発言した内容を引用するか……言わんとすることは同じだっだとして……どんな言葉で言い換えて伝えるか。
意訳という形式で、より洗練された文章に仕上げるのか。それとも、先進国のリーダーが語ったことを直訳という形で伝えるのか。どちらが「良いね」と映るのか、とても興味がある。
依存的な日本人であれば、「良いね」の多さに影響を受けて、「良いね」を押す心のハードルは下がる。逆もまた然りだ。
イタリアやフランスで、医療関係者を励ます意味で、とある時間になると、皆で歌い合っているそうだ。と報道された瞬間から、そういう事実を見つけて来て、Facebookなどでシェアしまくる人がいる。そして、「良いね」がたくさんついている投稿を目にする。
そこから、自分たち個人が行動できることを何かして、それをシェアしてくれたら、「良いね」を私は押したい。それは、その人が自立的な精神を持っていて、自分の頭で考えて行動した事がすごいと思うから。尊敬できるから。仮に、それが大きな影響力となって、社会や個人を変える事がなかったとしても、自分の頭で考えて行動した事がすごい。その一点に尽きる。
日本人社会は、影響力を与えてもらい、それに乗っかりたいと、無意識に思っている気がするんだよね。その方が楽だし、間違わない。みんなから称賛される基準というものが作られていて、それに追随すれば、受け入れてもらえる。異質とはみなされない。日本は同質ー同じである事で、自分の正しさや確からしさをお互いに担保し合う社会に見えてしまう。だから、異質なことを自分の頭で考えることは無意味だと思い、誰も見向きもしない。
本当に自立的な人は、影響力を与えようが与えまいが関係なく、自分がそう感じてそう思ったから、そうする。
思うに、イタリアやフランスで、医療関係者のために歌を歌おうと立ち上がった最初の一人は、きっとそういう人なのだと思う。
思い出した、私が日本に希望を持てない理由。自分の意見を言うと、みんな私の周りから居なくなる。海外生活の中で、私が普通に自分の頭で考えた発言したこと、感じたこと、は海外では普通に受け入れらていた。だから安心して、発言できたし、自分の気持ちが自分で良く分かった。ところが、日本では、流行っているものや考え方、をいかに早く自分に取り入れるか……が大切にされている。
流行に依存して、依存を極める。どうやら、それが日本で生きていくための賢さのようだ。
そういう社会では、私はコミュ障になるし、人見知りにもなる。そして、依存を極めて、もはや依存ではなく、まるで自立している風の人に、見下されることになる。そんな社会、いずれみんな病気になるだろうな……
日本では、コミュ障で人見知り。
社会不適合者
と、思われている。
海外では、私は自立&自律的で、人をまとめるオーガナイザーと思われている。
これってコミュニケーションがうまいってこと?
なんだろう?この違い。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?