山への哀愁

最近、山に頻繁に出かける。自宅から車で15分ほど行ったところに標高400m強の山がある。僕はそこへ週末によく父と散歩に出かける。

父は大の運動好きで、昔は陸上競技の長距離専門であった。僕をマラソン選手にしたかったのか、3歳のころから山登りに僕を連れて行っていたそうだ。父曰く、当時の僕は「山やだ山やだ。」と泣いていたそうだが無理やり連れていかれた。

そんな当時の僕からは想像もつかないが、今の僕はひとりでも山に行くぐらいそこの山が大好きだ。今日も山のふもとにあるキャンプ場の机と椅子があるところで東浩紀の「訂正可能性の哲学」を読んでいた。

川のせせらぎや鳥のさえずりが心地よく鼓膜に響いてきて、読書をしながら思いのままに思索することができる。たまにスズメバチが音を立てて近づいてきたりして咄嗟に逃げるといった小さなハプニングは発生するが、そういった些細なことを除けば本当に快適な時間を過ごすことができる。

僕は運動が好きで、現在家の近くのジムに通っている。ジムでは筋トレをメインにやるが、たまにトレッドミルで有酸素運動もするが、最近ハマっているのはそこの山道をランニングすることだ。

実はこの山には頂上まで行くために大きく2つのルートがある。

1つは険しい山道を登っていく方法、もう1つは車道を使って登っていく方法だ。普通の登山客は当然山道を通っていくのだが、ランニングには不向きだ。

なので僕はランニングをするために2つめの車道を通っていく。ほとんど車は通らないので安全面での心配もない。美味しい空気を吸いながらせっせと走っていくのはなんとも心地よい。

山の不思議なところは、何回登っても毎回新鮮な感覚があることだ。僕の感覚ですべてを認識するには複雑すぎるほどの無秩序な大自然空間が広がっている。

また、平日の昼に行くとほとんど誰もおらず、その空間を独り占めできているようでなんだか嬉しくなる。頂上に行くと、景色一面に小さな海沿いの街と海が広がっている。そこのベンチであれこれ考えたり瞑想したりシャドーボクシングしたりしている。

僕は来年から県内の市役所で土木職員として働く予定である。今はプール監視のアルバイトだけしており、社会と辛うじてつながっている。今の状況に多少の精神的な不安定さは感じているものの、平日に山に出かけて思索したり散歩したり運動したりするこの自由な時間は作れるのだろうか。

この時間は今の僕にとって確かに大切でこれがなくなってしまうかもしれないのが少し怖くて寂しい。なくなっても全然やっていけるのだろうが心の底から哀愁がある。

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