【お金】実務能力のない精神障害者はこれからどうやって生きていったらいいのか?
3日ぶりの更新である。今回はダークなテイストが強い記事なので、敢えて3日空けさせてもらった。せっかく趣味に関するポジティブな記事を書いたのに、それが埋もれてしまうのを避けたかったからだ。3日経って読者の動きも少し落ち着いてきたので、少しテイストの違う記事を投稿してもいいだろうと思った次第である。
※ここに書いた内容は決して自殺を仄めかすものではない。確かに、生きることへの不安を正直に吐露した部分があるが、むしろ、精神障害者である私のような人間が「どうやって生きていったらいいだろう?」と生きるための道を模索するというのが趣旨である。
先日、以下のニュースを目にした。
最近はお金の問題について触れることが多い。自分も問題の当事者として大きな不安があるからだろう。上のニュース、2020年10月の自殺者が2000人超で、昨年比で39%の増加という内容だ。39%の増加というのは、明らかに有意な増加と見ていいだろう。容易に想像できるのは、コロナによる経営不振で仕事をクビになったが、再就職先も簡単には見つからず、将来に絶望して『死』を選ぶ人が増えたということだ。(他の要因もあるだろうが)
また、近年の傾向として、企業(あの企業が?という大企業も含め)のリストラや早期退職者の募集なども進んでいる。現菅政権下では「自助、共助、公助」のスローガン(公助はいちばん最後である)が掲げられており、これからは年金や生活保護等のセーフティネットもどんどん削られて、国民一人一人に「自助」が求められる社会になっていくだろう。そのような流れの中で障害者への支援の削減も決して例外ではないと思われる。「社会的弱者だからといって、簡単には救いの手を差しのべたりはしないよ。そして、これまでみたいに、簡単に社会的弱者"認定"はしないよ。自分の力で生きていってもらうよ」というメッセージを感じる。
よく言われる話ではあるが、これからは、会社員であろうと、なかろうと、個人でスキルを磨き、個人のスキルで仕事を取っていくという考え方が求められる社会になっていくだろう。会社に身を預け、とりあえず会社に毎日通っていれば、生活の糧は保証されるという時代は終わりを迎えつつある。会社の看板で仕事を引っ張ってきてもらうだけの人はどんどん切り捨てられ、自分のスキルで仕事を引っ張ってこれる人間が生き残る社会になっていくのだろう。
稼げない精神障害者(私は双極性障害で、うつ期から含めると、3年以上治療を受けている精神障害者であり、精神障害者手帳2級を所持している)として、この記事を見て、思うところがあったので、11/10の晩から11/11の未明にかけていくつかツイートをした。お金の問題は精神障害とは切っても切り離せない問題かつ喫緊の問題でもあるので、こちら(note)にも同内容だが、掲載しておく。
ここに書かれた内容は、社会に出て死ぬ気で一生懸命働いている人からしたらただの甘えに過ぎないと思う。私もかつてはそうやって死ぬ気で自分の食い扶持を稼いでいたが、長くは続かなかった。精神的に病気もし、もともと脳の処理能力が低い上に今は病気の症状で頭が働かない。今、文章を書けてはいるが、業務上でのスピーディかつ正確な情報交換がまったくと言っていいほどできない(たとえば、上司・同僚の指示がまったく理解できない+書面を介したインプットがほぼできない)のが現実である。そういった状況でどう生き抜いていこうか。そう思ってしたツイートである。
悲観的なツイートが並んで申し訳ない。しかし、今日はそういうシビアな話だ。私なんかは、明日の食い扶持にも困って、明日死ぬかもしれないみたいな人より、現時点でいつまで続くかはわからないものの、支援(所得補償)を受けられている時点でかなり恵まれている。それでも来年の今頃は生きていられるかわからない。そういう不安はついて離れない。
長期的には会社員のように雇用関係には入らず、フリーランスの形で複数の稼ぎ口を作れれば良いと思って、今いろいろと模索しているところだが、それもすぐにお金にはならない。
2021年の春頃には無収入になる可能性があることを考えると、そのやり方では間に合わない可能性が高い。だから、目下の食い扶持を得る方法を考えないといけない。
色々と方法はあると思うのだが、私の思いつく限りの方法では、どれも達成できなさそうと思ってしまう(これは私の悪い癖だ)。「喫緊の問題やったら、仕事選ばずに働けや!」というのはまさしく正論だが、私の場合、無能だからこそ、働く場所を選ばなくてはならないという状況が発生している。人並みに有能で精神的安定性があれば、場所を選ばず働けるが、私の場合は違う。無能で精神的に脆いからこそ、働ける場所が制限される。そして、前職の経験から、もう一度チャレンジして失敗したら、今度こそ現世には留まれないという確信があるからこそ、次の仕事選びには慎重になる。
そうは言っても、とりあえず、今は時間をかけずにすぐお金になる(かつ継続できる)仕事を見つけるしかない。タイムリミットは2021年の4月頃とみている。それまでにどうすることもできなかったら、私の人生はそこでゲームオーバーかもしれない。そういう気持ちだ。
具体的には(今は頭が働かないから)Amazonのピッキング作業とか、交通整備員とか、治験とか、Uber Eatsとか、身体を張る系の仕事で、あまり複雑な人間関係に巻き込まれないものが良いだろうとは思っている。それも長期的に安定した収入源にはなりにくいとは思っているが、何とか日銭を稼ぐには至らないか、どうだろうと現在思案している最中である。Uber Eatsはツイートでも述べたとおり、すでに供給過多で激しい競争が起こっており、1日必死に働いたとしても時給500円程度にしかならないという話は聞いた。しかも、1日のすべてをそれに使うので他のことに割くリソースがなくなる。私は日銭を稼ぎながらも、長期的に食っていく飯のタネを作らねばならないから、その準備もしなければならない。だから、少々非現実的な選択肢ではあるかもしれないが、他の選択肢については検討してみる価値はあると思った。(他の仕事も似たようなものかもしれないが)
最悪、無収入かつ稼げない状況が発生した場合、両親からは「あまり大きな額は出せないが一時的に支援はしてやるから死ぬな」と言われているが、あまり家族に負担をかけるわけにもいかない。そこは、できる限り自分で何とかしたい。そして、両親から支援を受けるようになれば、私は毎日ひどい罪悪感に襲われるだろう。「私は、自分の力で自分の生活費を稼ぐことすらできない無能者だ。たくさんの人に助けてもらっているが、そのお返しとなる"何か"を、自分を助けてくれた人たちに対して、何一つとして提供できていない。何か人の役に立ってお金をもらわなければならない。それができなければ、私がこの世に存在している価値などない」と。
「またいつものように悲観的で中身のないポエムのような言葉を並べて、それを免罪符にして、人から支援を受けようとしているのだろう。コイツは卑怯なヤツだ。潔く死ねばいいのに」と多くの人は思うだろう。私も同じ言葉を自分自身に向けている。
そういうのはもう辞めにしよう。そう思って、現実的に生きる方法を模索し始めた。最近、起こった心境の変化の中で唯一ポジティブな面があるとすればそれだ。死ぬことだけで頭の中が支配されていたときと違って、今はどうやって生きていくか、そのためにどういう選択をすれば良いかという考えが頭の片隅にであるとはいえ、存在している。これは私にとっては大きな変化である。一生懸命毎日を生きている人から見れば、それでもまだ足りない部分があると思っているが。
「必死さが足りない」とか「今まで支援に甘えてきた奴が何言ってんだ」とか各人思うところはあると思うが、私だって本当に申し訳ないと思って生きている。「人様に支援してもらって生きる価値など私にはない」と思って何度自殺しようと思ったことか。
方法の是非はあると思うが、今は、死ぬことしか考えられず、生きる意欲がゼロだった頃と比べると、自分なりに生きる方法を模索しているというだけ、まだマシだと自分では思っている。
いや、それも自己評価が甘いのかもしれない。実際、Twitterでお見かけする精神疾患の方と比べると、私は努力できていないなと思うことが多い。「まだ、生きるためにやれることがあるはずだ」と友人にも言われた。その通りだと思う。会社員ほどバリバリとはいかなくても、もっと何かやれるはずだ。
最近、その友人に生きるための長期的な目標としてこういうことを始めた(たとえば、このブログ(note)だったり、文章のネタのために知識をつけたり、英語だったり、他の科目の勉強だったり、あとは身体の健康を取り戻すための活動だったり色々)という報告をしたら、「それは良い傾向だね!」と応援してくれた。長期的にはそれで間違っていないはずだ。ただ今は短期的にすぐ稼げる方法(かつ自分でも勤まるもの)を見つけたい。タイムリミットギリギリまでは何とかして生きる方法を模索し続けようと思う。正直、今は何の解決策も見つかっていないし、現状と将来への不安はまったく払拭されていない。それでも生きることにもう少し執着しよう。私の今の心境としてはそんなところだ。
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