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「許そうとするのをやめる」と決めた

いつかのつぶやきがこちら

ここでいう「許さない」というのは
ネガティブなものではなく

「許さない」を経ることを避けて
「許そうとすること」をやめる

感情が出ている間に
「許そうとすること」をやめる
「許さない」をずっと続けるのもやめる(もうできる)

ということ

「許す」を卒業すると決めた結果

なんか、ちょっと落ち着きました。
それに決めた時点で「ま、いっか」なーんてすぐさま過ぎる

許せなかった自分を許せたから急に素直になったようです
かわいいやつめ(?)

”不安等を言わない”を選んできた理由

愚痴が聞こえてくるとき、ただ、ただ美しくないと思った
周りに誰かがいるときにこれ見よがしに話をする
周りへの影響を考えることなしに、口にする

愚痴そのものよりは、特定の状況での愚痴を美しくないと思う

  • 愚痴を聞いたところで自分にメリットがあったことがない
    長い時間、愚痴等を聞いたとしても
    相手は自分のことに精いっぱいで感謝されたことはない
    また、言う側としても、”聞いてもらう”だけがニーズじゃないときがある

    長時間使ったとしても案外どっちも疲れは出る
    聞く側は満足感・優位性、言った側は依存性が高まるかも
    ”関係性”といった軸で考えても、デメリットの方が多いと感じる

  • 実際に自分が不安なときに、周りに余裕や知識がなかった
    話し方がわからなくなったときがありました
    母親に伝えたとき、無言でした
    なんて言っていいのかわからなかったかもしれないし、
    きっとカウンセリングの存在とかも知らなかったんだろうなぁ
    (薬に頼らない人だから、あんまり危機感はなかったかも)

    学生のときは、家族が病んでいました
    父親は自分の会社を辞めることになり、毎日怒っていました
    ほぼ家にいなかったのにいるようになったので、緊張感アップ

    母親は父親に怒鳴られて、いつも泣いていて
    精神も少し正常じゃなくなっていっていましたね
    うん、これは無理

ただ、全部自分の中に残しておくというのは中々重苦しい。
必要なときに、必要な場所で、時間をお借りして吐き出すのは有りだなぁと思いました。「全面的に何かを禁止する」というのは健康的ではないですね。

家族のこと、今まであったことをセルフコーチング、ノートとペン(ナリ心理学)で向き合ってはきたけれど、改善も図ってきたけれど、

どうも一人では辿りつかない部分があるのだと、
最近になって感じてきたのです。

時々、誰かに甘える時間も大切だし
そうすることで初めて自分を自分で甘やかすことができそうです。

※そもそも一人だとセルフコーチングの時間を作るのも億劫。
※そんなに困ってきていないしね。

これからどうするか

つぶやきもしたけれど
6月は「話を聞いてもらう月」にしようと思います。
(※5月にも既に予定有り)

大きなものから小さいものまであります。
これは、どうなんだろう…全部…手放させるのかな?
めっちゃくちゃある気がするんですけど?
そりゃ一切言ってきてないし?

(※5/13に一部を聞いてもらった結果、手放すのは余裕だと感じた)

まぁどちらにせよ、そんなのやってみない限りはわかりません。

なんのためにそうするのか

トラウマ、その類になっているものを
すべて自分の力へ変換させていきたい
ただの重りではなく、追い風になるように

身の回りのあらゆるものすべてを味方にしていくために

何を言ったとしても、何を感じたとしても
怖いものはないんだと信じられる人
良いと言ってくれる人と繋がっていきたい
(※自分自身も含めて)

そして、自分をもっともっと解放させていきたい

まだ見ぬ世界を知ってワクワクし続けたい
まだ見ぬわたしを知ってワクワクし続けたい

わたしはただ、それだけなのです

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