デン真 @祭り写真家

祭り写真家、普段は広告の仕事をしています。愛知の祭りに魅せられ、愛知を起点に取材。現在…

デン真 @祭り写真家

祭り写真家、普段は広告の仕事をしています。愛知の祭りに魅せられ、愛知を起点に取材。現在、愛知の祭り写真集を制作中。2017年、写真集「日本真ん中山車まつり」。2020年オリンパスギャラリー東京にて「祭り行こまい!」展。その他、写真展多数開催。公益社団法人日本広告写真家協会正会員

最近の記事

  • 固定された記事

愛知の祭り写真集を作り、愛知県下の全小中学校に寄付して、次代を担う子供たちに愛知のまつりの魅力を伝えるクラウドファンディング

祭り写真家のデン真です。 愛知県の祭りを中心にこれまで活動してきましたが、このたび、愛知の祭りを題材にして写真集を制作することにしました。そして、愛知県下の全小学校と全中学校に、この写真集を寄付するクラウドファンディングプロジェクトを立ち上げます。 2012年より、私が生まれ育った愛知県の祭りを追いかけ、今年で10年になりました。私は、広告写真を生業にする傍ら、「愛知の祭り写真家」として様々な公開講座、イベントなどで登壇させていただいております。 私が祭りを継続的に撮影するこ

    • クラウドファンディングのうら話

      この写真集は、撮影はもちろん、祭りの紹介文の作成からページのデザイン、コラム寄稿のお願いまで、すべて私一人で行っております。A4・176ページ、オールカラーの写真集。これを大手出版社が手掛けるのと同程度の価格に抑えて発行部数2000冊程度で出版するのは至難の業なのです。 なぜ外部にお願いしないのか、コストだけではないもう一つの理由があります。この写真集の構想は5年前に写真集を出版したときから始まっています。前回は中部地方のユネスコ無形文化遺産の山車祭りを中心にした写真集でし

      • ここが凄い!愛知の祭り からくり人形

        山車祭りが多い愛知の祭りですが、尾張を中心にした地域は、山車からくり人形の集積地です。全国の山車からくり人形の80%ともいわれる数が、この地に集中しております。さらにその技巧も複雑で精緻なものばかりです。 歴史をさかのぼれば、尾張徳川家七代藩主宗春公が京都からからくり人形師を招いたことに始まり、からくり人形の文化がこの地に根付きました。また、江戸時代は幕府が工業技術の研究開発をご法度としていたたこともあり、当時の日本における機械機構の最先端はからくり人形だったともいわれます

        • 祭り文化を未来に伝える クラウドファンディング開始しました。

          少子化のうえに新型コロナも重なり、地域の魅力ある祭り文化の継承が難しくなっています。私は愛知県で生まれ、かつて尾張・三河と呼ばれた愛知県下の祭り文化の魅力に魅せられ、10年以上この地域の祭りを撮影している写真家です。しかし、この素晴らしい祭り文化が次世代を担う子供たちにきちんと受け継がれていくのか、とても不安に感じますし、祭り関係者の多くも同じように危機感を抱いています。これまで祭りのときに故郷に帰って祭りに参加していた子世代も家庭を築き、子(孫)を持っていますが、子の故郷と

        • 固定された記事

        愛知の祭り写真集を作り、愛知県下の全小中学校に寄付して、次代を担う子供たちに愛知のまつりの魅力を伝えるクラウドファンディング

          【未来に残したい愛知の祭り】 須成祭

          須成祭は蟹江町須成地区の冨吉建速神社と八剱社の祭りで八月上旬に宵祭と朝祭が行われます。またこの行事の他にも七月から十月にかけて様々な行事が行われ、百日祭りとも呼ばれています。すぐ近くの津島天王祭と同じく御葭信仰の川祭りで、宵祭・朝祭の船が出て、葭を依代として神様が降りてくるなど共通しています。宵祭では提灯を灯した一艘の巻藁船が天王橋まで川を上ります。翌朝、模様替えした車楽船が同じように天王橋まで川を上ります。途中にある跳上橋はこの祭りの時だけ跳ね上がるものです。 祭りに関連

          【未来に残したい愛知の祭り】 須成祭

          【未来に残したい愛知の祭り】 雨乞い祭

          江戸時代宝永年間は富士山噴火をはじめ天変地異が続いた時代した。当時、この地も日照りに悩まされたことから、村人が雨乞いを行ったところ、見事に大雨が降り、神様への感謝の気持ちを込めて始まった祭りといわれます。山車とともに祭人が行う歌舞伎行列が、この祭りの見どころとなっています。旧東海道の風情が色濃く残る街道を進む歌舞伎行列が当時の風情を忍ばせます。 現在、制作中の愛知の祭り写真集は2023年5月の出版を予定しています。そして10月下旬から、この写真集を全小中学校に寄付するクラウ

          【未来に残したい愛知の祭り】 雨乞い祭

          【未来に残したい愛知の祭り】 小牧秋葉祭

          織田信長が築いた小牧城の下で行われている山車祭りです。江戸時代中期の天明年間(十八世紀末)、中町の町人によって山車が寄進され、その後さらに横町・上本町・下本町の三台の山車が加わり、現在の祭りの形が出来上がりました。秋葉祭りの名前の通り、火除けの祈願から始まった祭りだと考えられます。秋葉社のある神明社の境内に曳き揃えられた後、四台の山車に載っているからくり人形の奉納が行われます。 小牧城と祭りが始まった江戸時代には関係はないが、どちらも小牧のアイコンとなっているのだから、小牧

          【未来に残したい愛知の祭り】 小牧秋葉祭

          【未来に残したい愛知の祭り】 にっぽんど真ん中まつり

          栄、名駅だけでなく、市外も含めてその他多くの会場で行われる踊りのまつりです。誰でも参加できる市民参加型のまつりで、日本中から参加者が集まって、市内一円の会場で踊り明かします。通称「どまつり」として市民に親しまれ、全国だけでなく外国からも参加者が集ます。初開催は1999年で、曲のジャンルに制限はないが、参加者の地元の民謡のフレーズを必ず入れるというユニークなルールが採用されています。 私のライフワークとする祭りの被写体は、伝統的なもので数百年の歴史があるものが多く、それらは宗

          【未来に残したい愛知の祭り】 にっぽんど真ん中まつり

          【未来に残したい愛知の祭り】 信玄原の火おんどり

          新城市 信玄塚 連日、お盆の行事ですが、今日が最後です。信玄原の火おんどりは、戦国時代に織田徳川連合軍と武田軍が戦った長篠合戦で、決戦の場所となった設楽原で行われます。戦のあと、村人は死者を手厚く供養したのですが、供養塚から蜂が大量発生し、これを武田の亡霊と信じた村人が大施餓鬼法要を営んで霊を慰めました。これが火おんどりの始まりだといわれています。ヤーレモッセ、モッセモセ、チャンチャコマツヲ、トボイテ、ヤーレモッセ、ナンマイダ・・」と囃し、大松明を横八文字に振 りまわして踊り

          【未来に残したい愛知の祭り】 信玄原の火おんどり

          【未来に残したい愛知の祭り】 乗本万灯・鍋つる万灯

          乗本万灯は毎年八月十五日の夜、乗本の集落を見下ろす万灯山でおこなわれます。紐で結ばれた七十㌢くらいの大きさの万灯と呼ばれる麦藁の束に火をつけ、紐を持って男が掛け声を上げながら万灯を振り回します。この行事は長い伝統の中で多様な意味を持つようになったといわれ、盆行事としての鎮魂、害虫退治、さらには長篠合戦の戦没者供養の意味も持つようになったそうです。 なお、乗本万灯は今も女人禁制の行事として行われており、見物も含めて女性は立入禁止となります。 ここから火の玉となった万灯を下にめ

          【未来に残したい愛知の祭り】 乗本万灯・鍋つる万灯

          【未来に残したい愛知の祭り】 綾渡の夜念仏

          綾渡の集落は足助の町から東へ車で三十分ほど山の奥に入った場所にあります。小さな集落に曹洞宗のお寺、平勝寺があり、ここを中心に行われる盆供養の行事です。盆の夕暮れ、蛙の声が響く山里に鈴の音がチリーンと聞こえてくると夜念仏の行事は始まります。夜念仏は、初盆の家を回り、その霊を慰め、余興として盆踊りを踊る盆行事です。念仏行事は三河山間部から恵那に至る広い地域で行われていましたが、今はとても数少なくなりました。 風情あふれる盆の景色は日本の美しい文化です。 綾渡地区は、奥三河という

          【未来に残したい愛知の祭り】 綾渡の夜念仏

          【未来に残したい愛知の祭り】 田峯の念仏踊り

          設楽町 田峯地区 奥三河のいくつかの集落では盆の前後に念仏踊りを行う伝統があります。特徴的なのは「はねこみ」と呼ばれる太鼓踊りで、跳ねるように動きながら太鼓を打ち鳴らすとてもエネルギッシュなものです。綾渡の夜念仏はとても静かであるのに対して、はねこみはとても激しいものですが、その激しさもまた盆供養の静寂をより強く感じさせるもののように感じます。設楽町内では田峯地区以外にもいくつかの地区で念仏踊りは行われております。 8月1日、盆の支度、四編念仏の稽古始めを行う『釜の口空け』

          【未来に残したい愛知の祭り】 田峯の念仏踊り

          【未来に残したい愛知の祭り】 大海の放下

          新城市 大海地区 新城市大海地区は武田と織田徳川がぶつかった長篠の古戦場にほど近い場所にあり、長篠城や武田勝頼が本陣とした医王寺もすぐ近くにあります。放下とは放下踊りのことで、背中に大団扇を背負って振り回しながら胸に抱えた太鼓を打ち鳴らします。歴史は大変古く、源平の争乱で都の寺院に養われていた多くの僧侶が地方を放浪するようになり、その技を全国を放浪しながら広めたことが起源とされます。彼らのことを放下僧と呼び、その技を放下と呼んだそうです。 いわゆる祭り、氏神を迎えるにぎやか

          【未来に残したい愛知の祭り】 大海の放下

          【未来に残したい愛知の祭り】 三谷祭

          三谷は蒲郡の東に位置する温泉の町で、蒲郡にいくつもある温泉の中で最も歴の古い温泉です。ここで行われる三谷祭は山車(やま)の海中渡御がとくに有名で、絢爛豪華な山車が海の中を進んでいく、沖合の海の中をゆっくりと山車が進む様はまさしく神様が海をわたっていくようにも見えます。 祭りの始まりは、十七世紀末の江戸時代元禄年間、村人が神のお告げを聞き、神輿を設え神幸の儀式を行い、一八〇〇年頃から山車を海中に曳きいれる形になったとされます。 海から上がった山車が向かうのは若宮神社、四台の山車

          【未来に残したい愛知の祭り】 三谷祭

          【未来に残したい愛知の祭り】 村木神社のおまんと

          東浦町村木神社 衣浦湾岸の東浦、高浜、碧南は今もおまんとの盛んなエリアで、祭礼には丸太で囲んで円形の馬場が作られ、走っている馬に並走して若者が胆力を見せる行事が行われます。村木神社の伝承によれば、桶狭間の合戦後に今川義元を打ち果たした清洲の織田信長の元に尾張一円から祝いの飾馬を向かわせたのがおまんとの始まりだとされています。大須観音にも同じ伝承が残っています。 そして、この村木という場所が織田と今川のもう一つの因縁の場所であることも覚えておきたいところです。神社で行われるお

          【未来に残したい愛知の祭り】 村木神社のおまんと

          【未来の残したい愛知の祭り】 だんつく獅子舞

          東浦町藤江に伝わる一人立ちの獅子舞で「八ツ頭」とも呼ばれます。「恋歌仙」「膝折」「隠獅子」の三曲で構成され、それぞれの曲の初めには素盞嗚命(スサノオノミコト)が棒を振り回して舞台を清めます。歴史は定かではありませんが、一七世紀後半に横根(現在の大府)から道具を譲り受けて始 まったといわれています。また記録としては獅子頭の裏に「御修理亨保七寅年藤江神社御神宝」との記載があり、亨保七年(一七二二)には藤江で伝承されていたことが明らかだといわれ、300年以上の歴史のある獅子舞です。

          【未来の残したい愛知の祭り】 だんつく獅子舞