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エゴとカルマとその彼岸としての精神世界

精神世界の本とかは比較的好んで読むほうだった。

ただ、今考えてみると、現実離れしていたとは言える。

精神世界は現実離れしてるから魅力的なんだといえば、そうだとしかいいようがない。

精神世界の本は、人間の現世的なカルマが生み出してるような現実的なはなしはしないのだ。

それは、汚濁に満ちた現実に膿み疲れたわたしたちの救いににはなる。

新聞に出てるような記事の彼岸にある。

新聞に出てるようなはなしは、ダイレクトに人間のカルマと関係している。

それは確かに汚れている。

しかし最近、精神世界が説くようなエゴの放棄も、状況によってはそんなに素晴らしいことだとも言えない気がしている。

エゴとは、漢字を宛てれば「自我」であるが

「自我」は一般に「我の強い人」とか「エゴイズム」といった感じで
良いイメージがない。

しかし、個人が個人的選択の繰り返しによる自立が前提となっている近代以降の社会において、「自我」がないというのは無条件に素晴らしいことなのか?

「自我」がなければ、現世のカルマからも幾分自由でいられるかもしれないが
社会存在としての形式を持ちえないというか、輪郭のハッキリしない個人ができ上がる。

たとえば、結婚というのは、カルマ的な次元の自己制限かもしれない。

配偶者以外との性交渉を基本禁じて、子孫をつくるのだから。

それは、魂次元の何かにウソをつく、醜い世界にもなりうる。

しかし、結婚というような、醜い(?)制限をとっぱらうと、そんなに素晴らしい世界の住人になれるかは、個人的によく分からないのだ。

たとえば、結婚というカルマ的な自己制限のある意味対局にある、ポリアモリーみたいな性関係を受け入れれば、魂とやらが本当に喜ぶのかどうかは個人的には疑問だ(ポリアモリーなんてクソだ!と頭ごなしに否定してるわけじゃないが)

もう少し分かりやすくはなそう。

個人の自由意志による自立が前提の社会では、たとえ醜くとも「自我」がもしなければ、社会存在として「体」をなさないのだ。

「自我」は醜く表現されれば、執着や腕力となって表現される場合もある。

しかし、もし、ほとんど「自我」が機能しなければ、その人は、輪郭を持ちえない。

結婚というような醜い自己制限もない代わりに、輪郭を持つことにも失敗する。

精神世界の説くような、「自我」を手放す神話のようなものは、それが今現在の苦悩の彼岸として存在する限りにおいて魅力的なのだ。

たとえば、ある恋愛が苦境に陥ってるときに、あなたの運命の人は別の人です、とか、元カノこそが実は運命の人です、と言ってあげれば、今現在の恋愛対象と向き合う苦痛から逃れられるので都合がいいのだ。

しかし、それは、結局のところ逃げでしかないから、
その「逃げ」をつくった、その人当人の傾向は(告る勇気がないとか受け入れる勇気がないとか)対象を変えたところで繰り返されるのがオチである。

そこで、スピリチュアルカウンセラーが、運命の人は別のところにあります、と言ってあげれば、当面ラクにはなるが、
恋人同士とか配偶関係とか、現世的カルマの元に誰かと収まりたいのが正直なところであれば、矛先を変えたところで、同じことを繰り返すだろう。

そのとき、その人の「自我」がその壁を超えられなければ、その対象とは別のところにある彼岸みたいな選択を夢想するほうがラクではある。

それは、たとえば、フリーランスに失敗した個人が、サラリーマンの魅力を吹聴しだすのに似た転向劇とも言える。

人生ってそんなもんだよという人もいるかもしれない。

「自我」は確かに醜いものかもしれない。

しかし、すべての「自我」をことごとく諦めるようなあり方は、60歳をすぎた晩年期とかならともかく、それもなんか別の意味で醜いあり方のような気もする。

個人が輪郭を持ちえぬまま、誰かに影響力を行使するのは難しいような気もする。

ネット社会は、関係性を複雑化し
多分、「自我」といったような形式的なくくりを崩すほうへ作用しそうだ。

それこそ素晴らしい世界だ!とこれを賞賛する人すらいるだろう。

しかし、その「自我」というような醜い限定を受けない、輪郭をすら持たない自己存在に40過ぎて膿疲れたとき、ネット友しかいないような状況だったらどうすればいいのだろう?

それとも、「自我」というような、肉体的現世的制限を幾分(かなり)崩したネット的現実こそは素晴らしいものなのか?

精神世界のスピリチュアルカウンセラーは、誰かが壁にぶち当たって苦しんでいると、「エゴ」を手放し諦めよ!
手放したときに生じる「快」こそが真実だ、といい、「逃げ」の選択肢を提示する。

状況によっては「薬」になる考えだとは思う。

しかし、個人が壁にブチあったたとき、永遠に「逃げ」のオルタナを提示するのは、本当にその人への親切なのか?

個人の「エゴ」は終局的には失敗するのだろう。

しかし、「エゴ」から逃げてばかりで、終生、輪郭を持ちえぬ人生がそんなに素晴らしいものなのか?

1回くらい、ちゃんと闘えよ!と言ってあげるのがホントの親切じゃないのか?

そのセリフは軽い怒りを伴うべきだとも思う。

健康にはよくないかもしれないけど
人間、一度は、自分か他の誰かがやろうとしてる選択に怒りを覚えることがあってもいいのではないか?

エゴとカルマからの自由を目指す精神世界は、俗世の醜悪の彼岸としては魅力的で、薬にも癒しにも解毒にもなると思う。

しかし、そこから逃げてばかりが、逆に苦しいことばかりを生んで手が詰んでる個人には残酷なこともあるのではないか。

本当の限界にぶち当たって挫折した人には、すべてありのままを受け入れる世界観が癒しや解毒になるだろう。

しかし、その前に、ホントにできる限りのことはやったのか?とは一度は問うべきであって
もし、そうでなければ、すべてありのままを受け入れてエゴを手放すというのは、より醜い現実を招いてしまうだけではないか?

2人に1人は、エゴを表現せずに男女関係を成立できないと思う。

今は、お見合いなどのセッティング婚はほとんどないので、エゴがまったく表現されなければ、2人に1人は男女関係を成立できないと思う。

エゴを手放すというのは、状況によっては救いや解毒になるけど、また、状況によっては残念な結果を招くと思う。

エゴに執着してる限りよくならない人生状況もあるとは思うけど
エゴを出さない限り開けない人生状況もあると思う。


(あとがき)
今日、3つ目の投稿は、昔よく読んだ精神世界の「エゴを手ばなす」みたいな世界観は、ある種の人生状況においては、特にこれといったことを何もやらずに引き下がって手が詰みまくることもあるのでは?と思い記事にしました。

(あとがきその2)
自然に任せてればすべてうまく行くみたいな経験論をネットで語る人って、イケてる才女の人に多い気もします。
イケてる才女って、ありのままで自然にすべてを任せてても、注目されるから、そこそこイケてる男子が一生懸命口説いてくれたりして、股を開くのに抵抗しなければ、そこそこの境遇を築けるんじゃないかって勝手に妄想してます(違うかもしれませんが)
男子の人生は、自然にすべてをなんか委ねてたら、下手すりゃ吹きだまりです。
男女仲だって、どちらかがエゴ的に「ここへ行こう」って打ち出さなければデートひとつ成立しないですよね。
すべての人に一切のエゴがなければ一見美しい世界ですけど、全員がお釈迦様のように菩提樹の下で一日中座ってるみたくなって……
それってどうなんだって疑問もありますね。

さて、ここまで読んでいただきありがとうございました。

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