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不適合が自立を促す

社会不適合とか組織不適合とかの言われ方が増えた。
それだけ、自己肯定できない人が増えてるということだろう。
「社畜」という会社員の自虐用語にもそれがあらわれている。
パワハラ規制法や副業の解禁などの対応がとられたが、まだ十分ではないようだ。

しかし、それだけ不適合が目立っているということは、部分的には「自立」が志向されるのではないか?

「自立」の反対は「依存」だが
生物に完全な「自立」は無論なく、酸素や水、日光など様々な自分以外のエネルギーの恩恵を受けて人間も存在できる。
一方、完全な「依存」は赤ちゃんが生まれる前の羊水の中の状況に似ていて、一旦生まれれば、このような安楽は、覚醒時には起こりにくいだろう。
つまり、それは相対でしかない

「自立」と「依存」のどちらがどう悪で、どう善でみたいな話はここではしない。
「お金」は悪か善かみたいなはなしと一緒で決着がつかないと思われるからだ。

ただ、ある種の不適合は、「自立」を目指さざるを得ない状況をつくる。
もちろん、その個人がせいぜい高校生くらいの年齢になっていることも条件だ。

「依存」は融合であり、「自立」は融合から距離を置くことだ。
人間、無論、「融合」のほうが気持ちよい。
ただ、「利」の薄い融合、「不快」のほうが圧倒的に大きい融合からは離れたくなるのが人情だろう。

世界経済は2000年以降、特にリーマンショック以降、中国などを除くと傾いた。
経済不適合者が増えた。
しかし、この頃生れた、ブログやFacebookやTwitterに代表されるSNSやYouTubeなどが「お金が足りない」ことから生じる間隙を埋めた。

SNSやYouTubeなどを駆使すれば「お金が足りない」状態と、適合が難しくなっている会社生活から生じる不愉快の両方を一挙両得の如く解決できる希望を与えた。

経済不適合者はSNSや投稿メディアに流れたが
半分くらいの人はそこでも不適合を起こした。

「お金が足りない」人々は、お金がなくとも「いいね」や「コメント」「リプ」のやりとりにかろうじて救われた。
しかし、それすら得られない層もそこそこ存在する。

つまり、わたしの見方では
2000年以降は、先進国でも不適合者が増加傾向に転じた。
不適合者の何割かにとって「融合」は簡単ではなく
そうすると、そのうちの何割かは「自立」を目指すのではないか?


ホームレスというのも、ある意味「自立」的存在だと言えないか?

だって、ホームレスは食料などは他に依存してても、たとえば「Twitter」をまったくみないのだから。
「Twitter」をまったく見ない生活とは、良し悪しを別にして、すごく「自立的」なあり方ではないか?
ホームレスという不適合は「Twitter」をまったく見ないという「自立」をせざるを得なくなった。

行政はもちろん、どちらかといえば「依存」を奨励する。
たとえば、誰にどういうメリットがあるのかハッキリさせないまま、マイナンバーカードをなるべく全員に持たせようとする(窓口での個人確認が容易みたいな理由であれば、それは市役所の人がラクをしたいがためであり、余計なカードをやたらに持たせると高齢者が増えればまず紛失その他のトラブルが増えると思われる)

「もはや、誰もあてにならない」
不適合者の中にはこんな気持ちを持ち始めてる人も増えてるだろう。

こう感じ始めると、何割かの人は「自立」を指向し始めるのではないか?
もちろん「自立」も「依存」も「完全」はなく常に「相対」でしかないのだが

「テレビ」(特に地上波)への「依存」は減っているとみてよいようだ。
巨大な依存(構造)を作り上げるのがビジネス的成功であれば
今後、当たるビジネスは減ってくるのではないか?

「自立」志向がもし増えれば、それは短期的には迷走する個人が増えることを意味するだろう。
一部の人は犯罪者や自殺者へ転落するかもしれない。
いや、それはすでに起こってることだ。
オウムみたいな20年世間がそれを議論した宗教団体より、何でもないフリーランスの犯罪者の方が沢山人を殺してしまうことすらある。

まぁでも「不適合」のハンコを社会や会社からおでこにペタッと押されれば、刑務所という「依存」施設に収容されない限り人はよくも悪しくも「自立」を志向せざるを得ないのではないか?


(あとがき)
たとえば、僕が会社で課長さんクラスの適合をしていれば、こんな、NOTEでブログなんか書いてるハズなかったと思います。
僕は、派遣フリーターとして職場に「依存」してますけど、色々ジレンマもありまして、片一方で「自立」志向的にこんなことやってるわけです。
「依存」と「自立」のあいだで揺れ動いてるといいますか
そのビルとビルのすき間から見えるような世界模様を文章にしてみたわけです。
あるいは、これからを占ってみたわけです。


(あとがき・その2)
Twitterをやってないのが「自立」みたいな言い方を本文でしてしまいましたが、Twitterを自立的に使ってらっしゃる方も沢山いますよね。
語弊を生みかねない表現でしたが、Twitterみたいなメディアはほとんどの場合、その人にとってデメリットが膨らみ過ぎないような頻度(依存度)に落ち着くのかもしれません。
ただ、それを書いたときは、まったくTwitterをやらないのがすがすがしいように思え、「自立」と表現してしまいました。


(さらにあとがき)
ホームレスは「自立」的だみたいな表現をしてしまいましたが、人によっては「寄生」であり「依存」でしかないと考える人もいるでしょうから、その辺は難しいところです。
また、「不適合者」はホームレスを含めた「自立」を志向するしかないみたいな表現をしてしまいましたが、社会の側からすれば(人民に)「依存」して欲しいというより、単純にインフラ維持のための人が足りないという問題がでてくるのかもしれません。
たとえば、トンネルを新規に3つつくれば、それらは点検要員や補修要員がどうしても必要になります。
少子化かつ高学歴化が進んで、将来、その辺のつじつまが合わない時期がくるのかもしれません。
社会の側からすれば、YouTuberなんかはこれ以上要らないから、インフラ維持のための最低要員(?)は確保したいかもしれません。
それとも、超なAI化と自動化によって、それらのすべてが全自動化されて、僕たちは投稿アカウントでの成功(のみ)にうつつを抜かしていればよいのでしょうか。
これは、もう少し考える余地のある問題なのかもしれません。
あとがきをつけて、ひとつの文としては「未完」になってしまいましたが、キリがないのでここで締めます。

御一読どうもでした。


(製作データー)
書き始め:2022年8月31日午後13時50分

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