見出し画像

書評『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』


一冊好きなライトノベルを紹介するとしたら、私は真っ先にこの本を挙げる。『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』は桜庭一樹さん著作のライトノベルで、2006年度「このライトノベルがすごい!」で3位になっている。また、『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』は鬱小説としても知られている。この作品の書評をネタバレ含めて書くが、もしも『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』をまだ未読の人が読んでも大して問題ない。なぜなら、この作品は冒頭からどういうオチの話なのか掲示されているからだ。

本の書き出し

『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』の書き出し

新聞記事より抜粋
十月四日早朝、鳥取県境港市、蜷山の中腹で少女のバラバラ遺体が発見された。身元は市内に住む中学二年生、海野藻屑さん(13)と判明した。藻屑さんは前日の夜から行方がわからなくなっていた。発見したのは同じ中学に通う友人、A子さん(13)で、警察では犯人、犯行動機を調べるとともに、A子さんが遺体発見現場である蜷山に行った理由についても詳しく聞いている……。

引用:砂糖菓子の弾丸は打ち抜けないp5

これが本の書き出しであり、次のページでは、海野藻屑が主人公の山田なぎさのクラスに転入してくる場面に移る。その後、物語全体を通して、なぎさが藻屑と出会ってから、藻屑が殺されてバラバラ遺体になるまでの過程が描かれる。つまり、『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』は、海野藻屑という子がバラバラ遺体にされることが、小説冒頭で読者にあらかじめ伝えられて、バラバラ遺体になるまでの過程をなぎさの目線で追う作りなのだ。もちろん、これは意図した作りである。殺人ミステリーではなるべく早く死体を出せとよく言われるが、これは死体を出すことで読者の興味を惹きつけるためである。『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』では、中学生の海野藻屑のバラバラ遺体の新聞記事という強烈なインパクトを冒頭から打ち込むことで、物語のフックとして機能させている。また、海野藻屑が殺されるまでの過程を追う作りは悲劇的なストーリーに沿った作りであるが、海野藻屑が殺されバラバラ遺体にされる運命であることを読者に意識させることで、その悲劇性を強めている。そして、主人公のなぎさが藻屑の死体を発見する蜷山に登る場面が要所要所で挿まれることによって、我々読者は藻屑に待つ死の運命のことを意識させられる。この物語の作りは、『藻屑の死』というゴールに向かって進むカウントダウンと言ってもいい。ページを読み進め、藻屑が抱えている秘密が少しずつ解き明かされるごとに、『藻屑の死』に着々と近づいていると実感させる作りなのだ。小説冒頭の新聞記事は、物語全体の構造には外せない重要な要素なのだ。

『私の男』の書き出し

余談になるが、ここで作者の桜庭一樹さんの別の代表作も紹介したい。桜庭一樹さんが第138回直木賞を受賞し、映画化もされた『私の男』の書き出しも大変素晴らしいのだ。

私の男は、ぬすんだ傘をゆっくり広げながら、こちらに歩いてきた。

引用:私の男

まず、この書き出しの一文が物語のフックとして見事と言うほかない。最初に本のタイトルにもなっている『私の男』という表現が目に付く。普段、『私の男』という表現はあまり見かけないため、興味をひかせる。この時点で『私の男』は何者なのか分からないが、特別な関係性の男なのだと想像させる。また、この男は傘を盗んでいるにも関わらず、どこか落ち着きを払った様子だ。傘を盗むという行為も当たり前の行動をしているかのようで、この男の倫理観が欠如してしまっていることが察せられる。このように、たった一文の書き出しから、読者の興味を引っ張りなおかつ多くの情報が示唆されている。

漫画版の紹介

『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』は杉基イクラ氏によってコミックス化もされている。上巻下巻の全2巻構成で、物語構成や台詞などはほとんど原作のライトノベルに忠実に沿って作られている。

良かった点

漫画版の感想は、キャラクターのデザインが、ライトノベル版読んでイメージしていた人物の描写とかなり近かった。特に海野藻屑の私服姿だ。まさにこんな服装の女の子を想像していたという物を出された感じだ。これは原作の桜庭一樹さんの文章力と、漫画版の杉基イクラさんの絵の表現力が共に優れているということなのだろう。

悪かった点

漫画版で一点苦言を呈すると、原作冒頭の新聞記事の抜粋がなかったことだ。あれは必要な文章なの!!と声を大にして言いたい。
新聞記事の抜粋がないことで、漫画読者には『藻屑の死』の情報が与えられないまま物語が進行してしまう。それはすなわち物語のゴールが示されていないということだ。漫画ワンピースで例えるなら、ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)というワードが漫画内全く出ないまま、ルフィ達が目的もなく旅する様子を見せられるようなものだ。また、藻屑のことを"悲しい運命が待ち受けている可哀想な女の子"ではなく、"嘘つきで不快なキャラクター"と全く違う印象で読み進めてしまう読者もいるかもしれない。藻屑の嘘は彼女なりの心を防衛する術であり、必死に生きようとするあがきでもあるのだが、そこを不快な部分と切り捨ててしまうと勿体ない。
漫画ではないと言われるかもしれないが、上記の新聞記事の抜粋は原作そのまま1ページを使って載せてほしかった。

絶望と無力感の表現

『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』のあらすじを一言で表すなら、主人公山田なぎさが海野藻屑を救おうとするが救えない話だ。
中学生のなぎさが藻屑を虐待から救おうとしても、知識や能力、立場などあらゆる点で足りていない。藻屑が殺される直前、なぎさは藻屑に逃避行に誘う。しかし、読者にはそれが成功しないことも分かっている。藻屑が殺されるという情報がなかったとしても、女子中学生二人の家出が成功して問題解決すると思う読者はほとんどいないだろう。だが、何かの間違いや奇跡の類でも、藻屑が生き残ってくれないだろうかと読みながら願わずにはいられない。我々読者は物語の運命を決して変えることができないという事実に無力感を抱くしかない。

なぎさが海野雅愛と商店街で対峙する場面も見てみよう。なぎさは藻海野雅愛本人を相手に屑の虐待についてズバリ直接問沙汰すが、女子中学生のなぎさは相手にされていない。

「噂だろう?娘が痣を作っていたとして、それがぼくのしわざだと証明できる?家から悲鳴が聞こえていても、ぼくがなにかしているところを見たわけじゃないだろう?君は知らないのかい?あの子はとんでもない嘘つきなんだよ。ほんとうに、とんでもないんだ。のべつまくなし嘘をついてる。学校でのことだって、自分はクラスの人気者だって言ってるんだ。ぼくは嘘だと知ってるけどね。どうしようもないだろう?君、藻屑の嘘を信じすぎてそんなことを言うと、子供でも容赦はしないよ。名誉毀損は、ぼくのような仕事をしているものにとっては致命的でね、わかるかい?」
 海野雅愛はあたしが抱えている鍋に目を落とした。
「裁判沙汰になって、負けたら、ずいぶんとお金がかかるよ。ご両親は払えるかな?」
「藻屑を殴らないで」
 あたしはそんな嚇しに臆していないことを証明するために、大きな声で言った。魂はお金のことなんかで真実を曲げたりしないのだ。
 海野雅愛はちっと舌打ちをした。それから足を振り上げて、あたしが買ったばかりの鍋を蹴り上げた。鍋はへこんで、あたしの手から離れて、商店街の石畳に音を立てて落下した。
 あたしはそのまま立ち尽くしていた。

引用:砂糖菓子の弾丸は打ち抜けないp142-143

なぎさは海野雅愛本人を相手に「藻屑を殴らないで」と主張することしかできない。もちろんそれは勇気ある行動なのだが、雅愛に虐待をやめさせることはできない。女子中学生のなぎさの言葉では、雅愛を従わせるような力はない。単純な力という面でも、女子中学生と成人男性では、鍋を蹴られても何もできないほどの圧倒的差なのだ。最後の"あたしはそのまま立ち尽くしていた。"という一文が実に良くなぎさの無力感を表している。

私は桜庭一樹さんは実に無力感を表現するのが上手い作家だと思う。
『私の男』では、時系列を過去に遡るように物語が展開される。あらかじめその後の未来ではどうなるか分かるため、読者には決して介在することのできない物語の運命をまざまざと見せつける。これは『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』と近い手法で、我々読者は変えられない結末を知りながら読み進めることしかできない。
また、私は桜庭一樹さんの「少女から見た成人男性」に対する恐怖や無力感の表現に秀でていると思う。『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』以外の作品だと『少女には向かない職業』の文が好きだ。あちらも少女視点で書かれる力では絶対にかなわない成人男性という存在が、実に怖い物だと文章から伝わってくる。その怖さをもう少し噛み砕くと、つまり自分にはどうすることもできないという無力感だ。

藻屑が嘘をつく訳

藻屑は作中数多くの嘘をついている。転校初日の自己紹介から、海野雅愛の娘ではないと嘘をついたり、自分は人魚なのだと言い張るほどだ。また、股関節に障害を抱えており、左耳も聞こえない。しかし、それらの赤ん坊の頃に負った障害のことを秘密にしている。太ももの痣についても、怪我ではなく汚染なのだと言い張っている。それらの嘘は全て藻屑の父、海野雅愛の罪を覆い隠すためだ。作中でも示されているが、藻屑はストックホルム症候群に陥っており、虐待被害者の彼女は加害者の父を愛してしまっている。そのため、藻屑は父の暴力を愛情表現と捉えてしまっている。父の暴力は虐待であり愛情表現ではないと真実を指摘されることは、藻屑を酷く傷つける。藻屑は同情されることも望んでいない。同情を認めたら、父の暴力は愛情表現ではないと認めてしまうからだ。だからこそ、藻屑はすべてを嘘で覆い隠して虐待の事実を遠ざける。藻屑にとって嘘の中にしか逃げ道はないのだ。

誰がうさぎを殺したのか

作中で唯一謎のまま残された問題が、誰がうさぎを殺したのかである。主人公山田なぎさの学校でうさぎ小屋のうさぎが一匹首を切り落とされて殺されているのが発見される。そして、うさぎの首は藻屑の鞄から出てきた。容疑者は主に3人 藻屑、花名島、藻屑の父雅愛。小説では主人公山田なぎさの視点で書かれており、犯人を断定することはできない。
私はこの全員が容疑者止まりという構造自体に作者の意図があるのではないかと考える。仮に藻屑がうさぎ殺しの犯人だったとしよう。もしそれが作中で示されたら、いくら虐待被害者でもうさぎ殺しの件は許せないと、一定数の読者の心が彼女から離れてしまうのではないだろうか。藻屑は可哀想な被害者としてだけ一面的に描かれておらず、通常であれば不快な面も多く描かれているキャラクターだ。藻屑は「死んじゃえ」と暴言を吐いたり、ミネラルウォーターの入ったペットボトルをぶつけたり、主人公なぎさに対して結構酷い仕打ちを行っている。藻屑に対する印象は「嫌い」と「でも嫌いになれない」を常に揺れ動くように描かれている。画竜点睛のように藻屑を構成する最後のピースが、このうさぎ殺しのエピソードではないだろうか。犯人を明らかにして、藻屑が犯人ではないと安心することも、うさぎ殺し犯人の藻屑を嫌いになることもできない。もしかしたら藻屑はうさぎを殺すやばい奴かもしれない。でも、それはあくまで容疑者止まり。白とも黒とも言えない微妙なバランスの上に藻屑は成り立っている。

著者の思い出語り

唐突だが、ここで私の思い出語りをさせてほしい。
小学生の頃、ゴールデンレトリバーを飼っていた。よくイタズラをする犬だったが、私も家族もその犬を大切な家族の一員として愛していた。
ある夏、庭の木にヒヨドリ(スズメサイズの小鳥)が巣を作った。私たち家族はヒヨドリの巣で雛が孵り、雛達がすくすく成長する様子をこっそり見守っていた。そして、いよいよ巣立ちの日。成長した雛達が次々と巣立っていった。そんな中、一羽の雛が庭の地面に降りていた。巣立ちに失敗したのか、もしかしたら怪我をしていたのかもしれない。
そんな時、うちの犬が庭に飛び出し、止める間もなく地面の雛を捕まえてしまった。咥えられた雛は犬の口の中で小さくピーピーと鳴いていた。そのまま雛を放してほしいという願いも叶わず、あっけなく犬は雛を噛み殺して、バリボリと骨すら残さず食べてしまった。
そして、親鳥とおぼしき二羽のヒヨドリが雛を捜すように数日間ピーピーと庭で鳴いていたのをよく覚えている。

私が『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』を読んだときに藻屑に抱いた感情は、あの時犬に抱いた感情に似ている。すなわち、「でも嫌いになれない」だ。藻屑はもしかしたらうさぎを殺した犯人で、通常の倫理観から外れたことをしてしまったのかもしれない。それでも、なぎさと同じく私にとっても藻屑は大切な存在で、嫌いにはなれない。

「刺さる」ということ

感動した小説、映画、曲の歌詞などに対して「刺さる」と形容されることがある。「刺さる」とはどういうことかというと、「表現物の誰かしらに自分を重ねて共感すること」である。もう少し私なりの解釈で言い換えると「あたかも自分の感覚や感情を表現してくれているかのように感じること」である。
『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』を読んで藻屑に対して抱いた気持ちは、自分の中に眠っていた子供時代に飼い犬に抱いた大切な感情を思い出させてくれた。『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』は、こうして書評を書くほど私に深く刺さったのだ。

#読書感想文 #読書感想 #書評 #小説 #ライトノベル #砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない #私の男 #少女には向かない職業 #桜庭一樹

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?