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高学歴なメンバーが作り出したバンド、QUEEN【3】

イギリスの高等教育における奨学金は、大学生ばかりでなく教育カレッジ、継続教育機関上級コースの学生たちをも対象としており、学生全体の90%以上が何らかの奨学金の支給を受けているといわれる。イギリスの奨学金制度は地方教育局、大学、政府、その他の団体による4種のものからなっているが、とりわけ第二次世界大戦後、めざましい発展を見せた地方教育局による奨学金制度が支給を受ける学生数、金額の点で、最も大規模なものである。地方教育当局には、教育的に一定の資格のあるすべての学生に対して(条件は彼らがその地区に3年間住んでいること、以前に2年間以上の高等教育全日制コースに出席したことがないこと)一定の高等教育コースに出席できるように奨学金を支給する義務がある。支給される奨学金は、貸付ではないので学生たちには返済する義務はない

大学に進学すれば、学費も生活費も奨学金!

このような制度に基づいて、大学生及び高等教育機関上級コースに在籍する学生には、学費と生活維持奨学金が支給される。生活維持奨学金は大学生だけでなく継続教育機関上級コースや教育カレッジの学生に対しても同じように支給される。1965年度における生活維持奨学金は、平均して約285ポンド、日本円に換算すると約25万円ほどであり、その詳細な内訳は交通費12ポンド、書籍費など38ポンド、休暇中の生活費36ポンド、 雑貨41ポンド、衣類・クリーニング代40ポンド、学期中の食費・住居費(家庭からの通学者一般 は123ポンド、オックスフォード、ケンブリッジ、ロンドンの寮生ないし下宿生128ポンド、その他の学生は193ポンド)である。このほかに割増金もあり、また大学による給費や国家給費、教育基金団体や慈善団体による奨学金を加えることもできる。「高等教育機関に進学すれば、働かなくても食べていける」と考える若者たちも少なくはなく、このことは若者の大学を見る目を変えていった。
(筆者註:上記の生活維持奨学金が年額なのか月額なのかを明記していませんでした。出典は深田三徳、村松岐夫、佐藤幸治著『イギリス/アメリカの大学問題』1971年、世界思想社なのですが、図書館で借りた本だったので、現在確認できません…)

◆1971年頃の1ポンドは約860円。少し時期がずれるが、1977年における失業手当は年間で206ポンド、1978-89年にロンドンの自宅外生には1315ポンドが支給されていた。奨学金の方が5倍ももらえる!

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◆”QUEEN AS IT BEGAN”に掲載されている、おそらくブライアン・メイの高校でのニュース。1人めの学生はLONDON School of Economicsに年間100ポンドの奨学金を獲得して進学(LSEにはミック・ジャガーが在籍していました)。ブライアンは年間75ポンド。進学校であるグラマー・スクールですが奨学金を獲得したのは2人だけということでしょう。あと、ブライアンは成績優秀に加えて演劇部や弁論部での活躍が称えられています。課外(クラブ)活動にも熱心だったのですね。

失業手当より奨学金

実際、1960年代の経済状況は悪く、義務教育を終えてすぐに社会に出ても職に就ける見込みは低かった。イギリスでは不況の直接的しわ寄せは優先権を持った中高年労働者層にはこずに、若年層にくる。若年層の失業については、若年失業率は成人失業率が高まるとその数倍(2~3倍)の速度で上昇するため、成人失業率の水準が上昇するほどその悪化の速度が増す。また、若年失業率は平均失業率を大く上回っているから、若年失業者の全失業者に占める割合は、労働人口に占める若年層の割合よりも大きかった。その割合はイギリスでは41~45%となっている。 1960年以降、イギリスで失業率が急増したのは1961~62、1966~67、1971~72年である。上記の分析から考えると、その時期の若年失業率も急増しているはずである。そのような社会状況であれば、すぐに失業手当の行列に加わるよりも、生活と社会的な身分が保障された高等教育進学を志す風潮が生まれたとしても不思議ではない。実際、QUEENのロジャー・テイラーは一度 London Hospital Medical Schoolに入学するが1年ほどで退学し、友人たちとロンドンでロック・ バンドを組んで活動する傍ら、古着屋を開いて生活していたが、それでは苦しくなって奨学金目当てに別のカレッジに再入学する。

「この頃、ロジャーは特別な収入が必要だと思い、カレッジの生物学のコースに登録することに決めた――というのも、彼はそのコースの奨学金を受ける資格があったからである。彼は1971年の7月初旬、North London Polytecnicに入学した。」
(Jakky Gunn and Jim Jenkins, QUEEN AS IT BEGAN,1992,Pan Books, p49)

SEX PISTOLSのジョニー・ロットンは、インタヴューの中で自分の大学生活について次のように語っている。

記者:その後は専門学校に進みましたね。そこには丸1年在籍したんですか。
ジョニー・ロットン(以下JR): 専門学校だって?そんな風に呼ばれてるのか。そりゃまたご丁寧な呼び方じゃないか、 あんなくそ学校。最初、ハックニーに行ったんだけど、連中ときたら俺を追い出しやがった。その学校で、シドとあったんだ。学校にゃ、おれたちちっとも行かなかった。それから二人とも、キングスウェイに行ったんだ。
記者:そこでは何を勉強したんです?
友人:大酒飲み学だろ。
JR:俺はエールの飲み方を練習したぜ。地元のパブでな。
友人:まさにね。だって、俺がそこを通りかかると、毎日のように奴ときたら11時から3時までつっ立って飲んでた。
JR:あぶく銭でね。奨学金があったのさ。あの頃はしこたま金を持ってた。書類をでっち上げたのさ。
(フレッド&ジュディ・ヴァーモレル著、野間けい子訳『セックス・ピストルズ・インサイドストーリー』1986年、シンコーミュージック)

また、QUEENの2人のメンバーが学位を得た後も大学に残って研究を続けているが、イギリスでは大学卒業後に大学院進学や他学部への再入学、教員や大学の職員になるといった教育部門へ進む傾向が強い。1974年の段階で教育部門へ進んだのは、他部門よりも圧倒的に多い34%であった。この傾向について森嶋通夫は著書『イギリスと日本』の中で、綿密なエリート教育を受けたイギリスの学生たちは、学間に魅了されてそのまま研究者としてこの世界に居続けるか、その能力を伝えるべく教育者になりがちであるというように述べている。しかし、先も述べたように大学を出たからといってすぐに職に就けるわけではない。それならば、大学に残って引き続き奨学金を受けたほうが、確実に生活できるのではないか。大学院生のほうが大学生よりも支給される奨学金は高額であるため、高等教育への進学率と同様、大学院への進学率の高さも奨学金が一因になっていると思われる。

時間とお金の余裕から「余暇」が生まれた

このように、イギリスの高等教育における奨学金制度が1960年代以降の若者たちにとって、高等教育進学を志す一つの原因になったと考えられる。そして奨学金によってもたらされた経済的な余裕は、時間的な余裕ももたらす。高等教育機関に在籍する若者たちは、すぐに社会に出て働く人々よりも「余暇」を持つことができた。サイモン・フリスは『サウンドの力』の中で、学生は若者労働者と違って労働と娯楽の区別がぼんやりしており、時間の直接的な制約がほとんどなく、大半の時間を気ままに読書や書くことや考えることに費やし、友達とおちあったりレコード・プレーヤーを大音量でかけたりする。これは彼らの仕事の時間なのだろうか、それとも余程の時間なのか、その境界線はあやふやであると述べている。つまり、高等教育機関という場は、その外の社会とは明らかに違う時間の流れを持っているのだ。これらの経済的、時間的余暇は若者たちに楽器を持って演奏活動をすることや、チケットを買ってロック・コンサートに行くこと、自分の気に入ったスタイルにファッションを固めることなどを可能にした。しかも、そこは出身地がどこで出身階級がなんであろうと、若者という共通項を持つ同一年齢集団でもある。同じ世代のアイドル……例えばBEATLESについて話すにしても、最も話しやすい集団なのだ。

こうして1960年代以降のイギリスの高等教育は、若者たちに「余暇」を与える新しい “場”となった。多くの若者が奨学金と学生という社会的地位を求めて高等教育への進学を志した。高等教育機関へ入学し、経済的にも時間的にも余裕を持つことができた若者たちの多くが娯楽としてロックを楽しんだのである。大学も学生によって娯楽を提供する場としても機能するようになった。例えば学生ユニオンはバンドにギャラを払い、大学内でのコンサートを提供した。学生バンドが活躍しやすくなり、プロのコンサートも比較的安価で見せることができたのだ。また、同世代集団が集まっているため、バンドのメンバーを探すのにも適していたし、コンサートも客が集まりやすかった。QUEEN結成のプロセスも、その“場”を活用してできた学生バンドの特徴が明らかである。

一人がLondon University Imperial College内の掲示板に出した募集広告から何人かの学生が集まってできたバンドがQUEENの母体となり、ロンドン内のカレッジをめぐってコンサートを行った。そのうち、彼らの熱心なファンの一人がヴォーカリストとして加入し、また別のカレッジの学生を加えてQUEENはできあがったのである。このような大学という場を利用してできた学生バンドの構成は“インターカレッジ”なものにもなり得たのであり、大学という中にありながら活動の場を広げることもできたのである。

1960年代以降のこのような高等教育機関の環境の変化により、「学位を持ったロック・ ミュージシャン」の存在は珍しいものではなくなっていった。第73代英国首相のトニー・ブレアも1960年代後半から70年頃にオックスフォード大で学生生活を送り、「ロック・バンドを組んで音楽に夢中になり、酒とガールフレンドの学生生活だった」と当時を振り返っている。

メンバー全員が学位を持つインテリ・バンドQUEENの存在は、このようなイギリスの高等教育制度が生み出した若者文化を象徴しているといえる。QUEENのファン・クラブ会長であるジャッキー・ガンは、QUEENのファンたちは、バンドと同じように良い教育を受けようと大学などの高等教育を目指す人が多かったと語る。なぜなら、QUEENがそうだったのだから自分たちもそうしようと思った。良い教育を受け、さらに楽しい時期を過ごせる場であるということに気づいたからだ。その意味でもQUEENが当時の若者に及ぼした影響は多大であったといえよう。


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