わたしがジャック・ニコルソンになった夜/新井由木子
わたしの営む書店ペレカスブックは、分厚いほっとけーきが人気のカフェ・コンバーションの中にあります。
イラストレーターを兼業しているので、店番をしつつラフ制作なども行っていますが、仕事の重要な部分は集中が必要なため、閉店後の作業になります。
お客さんもスタッフも居ない店内はひたすら静かで、しかも家と違ってお酒を飲みたくなったりなどの雑事への誘惑もなく、それはそれは仕事がはかどるのでした。
締め切り間近の仕事に取り組んでいたその日、夜も更けたころに、わたしが悲鳴を上げつつ椅子から飛び上がったのは、けたたましい金属音のせいでした。
無人の厨房からの音でしたから、心霊現象が疑われましたが、どんなに怖くとも、確認しないわけにはいきません。
恐るおそる暗い厨房に入ると、そこにあったのはコンクリート床に転がったステンレスボール。ボールが乗っていたのが、天面を作業台としている製氷機だったため、どうやら動力の振動がボールを少しずつ動かし、最終的に落下させたようなのでした。
わざわざこのようにきちんと理由づけをするのは、霊のしわざであったら怖いから。なるべくなら仕事を続けたいわたしには、これが“原因のある現象”である必要があったのです。
ところがです。自分の心を騙すように、むりやり安堵して机に向かったわたしは、再度悲鳴を上げました。何故かカフェのグラスを収納した棚の棚板がいきなり外れ、グラスがガチャンと音を立てたからです。
これは少し長さの足りない棚板が、店内の振動で少しずつずれ、このタイミングで外れただけに違いない。恐怖から目を背け、わたしは再び仕事に戻りました。
作り話のようですが、本当にその夜の怪異はそれでは終わりませんでした。なんと、次に訪れたのは鳴り響くサイレンだったのです。
ファーーーーーーッッ!!
電子音でありながら、そう言っているように聞こえるサイレンは、耳を擘(つんざ)く大音量で、途切れることなく鳴り響きました。
人は本当に驚くと、悲鳴を上げることも出来なくなるのですね。
呆然としつつ音の出所を探すと、カフェのレジ付近にあるPCから、音は出ているのでした。
それはカフェ・コンバーション店主(以下コンバーション)が確定申告のためだけに使っている、かなりの年代もの。ノートブックタイプでありながら、持ち運ぶのは男性でないと厳しいと思われるくらい重厚な作りで、PCというよりは箱膳に似ています。そのPCからサイレンは鳴り続けているのです。
ここで恐怖がピークになったかというと、意外にもそうではありませんでした。
集中を3回も邪魔された心に湧き上がってきたのは、恐怖を上回って余りある怒りでした。この時のわたしは、映画『シャイニング』のジャック・ニコルソンが、執筆中に妻のウェンディに話しかけられた時のような顔をしていたと思います。
しかし残念なことに、怒りにより去って行った恐怖は、すぐに戻ってきました。
もう何があっても恐れないと思いながら、音を止めるためPCを開いたその瞬間、暗いスリープ状態だったディスプレイが目を覚まし、ゆっくりと明るくなる画面に浮き上がったもの……それはシミだらけの肌をして頭の禿げ上がった、全裸のお爺さんのドアップだったからです。
サイレンと同じくらいの音量で、わたしの口から絶叫が発せられました。悲鳴の上には声の出ない驚きがあり、その上には恐怖を消し去る怒りがありますが、更にその上を行くのは恐怖を消し去りたいと必死で絞り出す絶叫なのでした。
そして絶叫している間に気がつきましたが、お爺さんのように見えたのは、コンバーションが昔飼っていたフレンチブルドッグの、晩年の写真でした。
鳴り続けるサイレンは、PC内部の異常を知らせるためのもののようでした。しかもサイレンの機能自体も壊れていたようで、どのように対処しても音を止めることはできません。
仕方なく電源を取り外し、あるだけのタオルで包んで倉庫の奥に押し込み、音の漏れるのを防ぐと、バッテリーが切れるのを待つことにして、わたしは仕事を放棄して帰りました。
こちらが、わたしが絶叫したフレブルのブーちゃんの写真です。
こうしておちついて見ると、全裸にも見えないですし、可愛いのですが、あの夜は本当に怖かったのです。
(了)
草加の、とあるおしゃれカフェの中の小さな書店「ペレカスブック」店主であり、イラストレーターでもある新井由木子さんが、関わるヒトや出来事と奮闘する日々を綴る連載です。毎週木曜日にお届けしています。
文・イラスト・写真:新井由木子(あらい ゆきこ)/東京都生まれ。イラストレーター・挿絵描き。埼玉県草加市にある書店「ペレカスブック」店主。挿絵や絵本の制作のかたわら書店を営む。著書に『誰かの見たもの 口伝怪奇譚』『おめでとうおばけ』(大日本図書)、『まんじゅうじいさん』(絵本塾出版)ほか。「この世はまだ たべたことのないものだらけ。東京に近い埼玉県の、とあるカフェの中にあるペレカスブックで、挿絵や絵本を作りながら本屋を営んでいます。生まれ故郷の式根島と、草加せんべいの町あたりを行き来しながら、食べること周りのことを書いてゆきます」
http://www.pelekasbook.com
Twitter:@pelekasbook