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『月獅』第2幕「隠された島」    第6章「孵化」<全文>

第1幕「ルチル」は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
(第1幕)
レルム・ハン国にある白の森を統べる「白の森の王」は体躯が透明にすける白銀の大鹿だ。ある晩、星が流れルチルは「天卵」を産む.。そのためルチルは王宮から狙われ白の森をめざす。だが、森には謎の病がはびこっていた。白の森の王は、再生のための「蝕」の期間にあり本来の力を発揮できない。王はルチルに「隠された島」をめざすよう薦める。
(第2幕)
ディアは孤島に父とふたりだけで暮らしている。島の北にあるヴェスピオラ火山は「嘆きの山」ともいい、山頂までが迷いの森となっているだけでなく、山頂には強い磁場があり、近づくものを火口に飲み込む。ある日、島の浜に女が漂着する。それは天卵を携えたルチルだった。

<登場人物>
ルチル‥‥‥天卵を産んだ少女(十五歳)
ディア‥‥‥孤島に住む少女(十二歳)
ノア‥‥‥‥ディアの父 
ギン‥‥‥‥ハヤブサ・ノアの相棒
ヒスイ‥‥‥翡翠色の翼をもつケツァールという鳥・ディアの相棒
カシ‥‥‥‥ルチルの教育係兼世話係
ブランカ‥‥ルチルが飼っていたシロフクロウ
白の森の王(ハク)‥白の森を統べる白銀の大鹿
シン‥‥‥‥白の森に住む「森の民」の末裔
ラピス‥‥‥シンの娘(三歳)
タテガミ‥‥白の森の漆黒の馬。ルチルの逃亡を助ける。

「何もないが、昨日しとめた猪のシチューだ。猪は食えるか?」
 テーブルには湯気のあがった鍋が置かれていた。

 ルチルは海で冷えきった体を温め、ようやく体の芯が息を吹き返すような気がした。
 風呂は戸外にあった。
 なだらかな草原の丘の上に丸太造りの小さな家があった。その隣に簾で囲った一画があり、ここがお風呂よ、とディアが案内してくれた。
 小さな池のようなものがあり、内側は石が敷き詰められている。石はしっくいで固められていて細かなすきまには貝や小石が埋め込まれていた。近くに熱水の湧き出る沢があり、そこから湯を引いているのだという。温泉というものがあると、いつかカシが話してくれたことがある。自然に湧き出る湯の泉があって、年中冷めることなく熱いくらいでとても心地よくて腰痛にも効くのだと。「どんなものか入ってみたいんですがねえ。ノリエンダ山脈を越えたその先の先ぐらい遠いんだそうですよ。生きてるうちに一度は行ってみたいもんです」とカシが云っていた温泉とは、これのことだろうか。
 簾は海側をのぞく三方を囲っていた。空と海を眺め風に吹かれながら鳥たちと一緒に入るの、とディアが浜から続く坂道で話してくれた。
 簾もね、とディアがいう。
「去年まではなかったんだよ。去年の誕生日にね、簾を立てるって父さんが言い出して。海が見えなくなるから嫌だっていったらさ‥」
 と、くるりと振り返る。
「海のほうだけは開けていいことになったけど。おかしいよねえ」
 なんと返そうかとルチルがとまどっていると、ディアは返事を期待したわけではなかったようで続ける。
「この子はヒスイ。あたしの相棒よ」
 ディアの傍らをつかず離れず翡翠色の美しい翼をもつ鳥が飛ぶ。ちらちら見える赤い腹毛が印象的だ。ケツァールという鳥なの、と教えてくれた。
 ディアは丘の上の家に着くまでさえずるようによくしゃべった。くるくると自在に変わる表情。少し走っては振り返ってルチルを見つめ、大きく首をかしげて笑う。ぴょんぴょん跳ねながら走っては戻ってくる。
 ――リスみたい。
 湯につかりながらルチルは思い出してくすっと笑う。 
 カーボ岬から海に飛び込んで何日が経っただろうか。偵察隊のレイブンカラスは、ルチルと天卵が海に没したことを王宮に報告したろうか。白の森はぶじだろうか。
 陽はちょうど中天を通りすぎたところで、金の鱗のように水平線の波がさんざめいている。その美しいゆらぎを眺めていると、ようやく助かったのだと実感できた。いっしょに湯につけている卵も、心地いいのだろうか、まぶしいくらいに黄金に輝いている。毎朝髪を梳いてくれたカシのやわらかな手の感触を思い出し、カシ、とつぶやいてみる。
「お父様、お母様、ブランカ」
 声に乗せたとたん、これまで蓋をしていた感情があふれだし、熱く苦いものが喉を逆流する。涙の粒がとぎれることなく零れて湯に消える。ルチルは低く嗚咽を噛みしめながら、しばらく頬をつたいあふれる雫を流れるにまかせた。

「遠慮せず食べろ」
 ノアが猪肉のシチューを皿によそいながらいう。ディアが貸してくれた単衣はルチルが着ると膝がみえたが、それがかえって湯あがりの脚を風が撫で心地いい。
「山羊のミーファのミルクで作ってるんだよ。野菜は朝採ったばかり。山羊のミルクはきらい?」
 ディアはテーブルから身を乗りだすようにしてシチューをすすめる。
 ノアは皿に取り分けるとさっさと食べ始めたが、ディアはルチルから目を離さない。ルチルはディアに微笑むと、ひと匙すくってすする。喉をあたたかいものが滑りおり、胃の腑がじわりと温まる。ふうっと、ひとつ深い息をはき、おいしい、とつぶやく。ディアは、ぱあっと顔を輝かせ、ようやく椅子に腰かけて食べ始めた。
 心からおいしいと思った。
 そういえば、ずっとまともな食事をしていなかった。地下へ降りる前に、カシがパンやチーズの包みを袋にいっしょに入れてくれていた。でも、暗い穴道を駆けるのに必死で口にすることはなかった。タテガミに乗って逃げているとき、シンから「食っとけ」といって渡された干し肉を齧ったくらいだ。こうしてテーブルについて、温かな食事ができることのありがたさを感謝せずにはいられなかった。館にいたこれまでは、食事は時間になればあたたかなものがテーブルに整えられていた。それを太陽が朝昇るのと同じくらいあたりまえのことと思っていた自分が、今は恥ずかしい。
 天卵はノアが用意してくれた籐の籠に置いている。籠にはわらが敷かれていて、まるで鳥の巣みたいだ。
 ディアは好奇心が抑えられないのだろう。天卵とルチルにちらちらと視線を走らせる。訊きたいことが山ほどあるの、と顔にかいてある。それでも、ノアが「話したくなったら、話してくれ」と無理には訊かないと宣言したことを守っているのだろう。シチューをすすりながら器用に休みなくしゃべっているが、「人魚ってみたことある?」とか「きのうはシロイルカといっしょに泳いだんだよ」と話すばかりで、かんじんなことは尋ねない。
 食事がすむころには、ルチルの心は決まっていた。
「隠された島のことは、白の森の王から聞きました」
 ルチルはスプーンとフォークをテーブルに置いて姿勢をただす。
「大海のどこかに『隠された島』があって、そこなら追手から逃れて天卵を守ることができるだろうと。ただし、どこにあるかはわからない。常に嵐に守られているとも、海をただよう浮島だとも伝えられていて、白の森の王も見たことがないとおっしゃっていました」
「ハクのやつめ」
 ノアが小さく舌打ちする。
「ハク‥‥とは?」
「知らなかったか。白の森の王の名だ」
 ルチルが目を丸くする。
「ノア、あなたは白の森の王のことを知っているの」
「まあな、古い知り合いさ」
「でも‥‥白の森の王は、隠された島がどこにあるか知らないと‥‥」
 ルチルは混乱する。
 ノアは頭を掻き、腕組みをして、目をつむる。しばらくその姿勢で何かを逡巡しているようだった。窓辺で鈴なりになって騒々しく止まり木の争奪戦を繰り広げていた小鳥たちも気配を察したのだろうか、しんと口をつぐむ。
 沈黙をやぶったのは、ディアだった。
「白の森の王って、だれ?」
 目を開けたノアとルチルの視線がぶつかる。口を開きかけたルチルをノアは掌で制した。
「海のずっと向こうに大陸がある。大陸というのは、この島を何百個いや何億個つなげたくらいの大きな陸だ」
「島じゃないの?」
 ディアが首をかしげる。
「周りを海に囲まれた陸地を島というなら、大陸も海に囲まれているから島になる。だがな、とてつもなく広くて、山をひとつ越えると海は遠い。海を見たこともないというものもたくさんいる。その大陸に白の森という広大な森がある。森はこの島よりもずっと大きい。白の森を四つの村が取り囲んでいる。ルチルは東のエステ村領主の娘‥‥で、合ってるか?」
 ルチルがうなずく。
「その白の森の王が、ハクって名のからだが透けた大きな白銀の鹿だ」
 ノアが白の森の王のことを知っているのはまちがいない。王の御姿みすがたを正確に知っている。ノアも森に入ったことがあり、記憶を消されなかったということか。白の森の王はノアを信頼していると受け止めていいのだろうか。
「ふた月ほど前のある夜、流星が私のからだに飛び込み、星を宿しました」
 ディアが驚いてそのつぶらな瞳をみはる。
「ああ、俺も見た。三つ流れたな」
「最後に流れた四つめが、私のからだに」
「そうか。何か起こりそうな予感がした」
「一週間後に天卵を産みました。はじめは鶏の卵くらいの大きさだったのが、こんなに大きくなった」
 ルチルが天卵に視線をすべらせる。
「王宮に見つからないように気をつけていたのだけれど」
「どうして、見つかっちゃいけないの?」
 それはな、とノアが『黎明の書』の一説をそらんじる。
「天、裁定の矢を放つ。光、清き乙女に宿りて天卵となす。孵りしものは、混沌なり、統べる者なり。正しき導きにはごととなり、悪しきいざないには禍玉まがたまとならむ」
「何の呪文?」
 ディアが不思議そうな顔をする。
「『黎明の書』という古い書物に記されている。重要なのは、『孵りしものは、混沌なり、統べる者なり』の箇所だ」
「どうして?」
「天卵から孵った人物は、世界を混乱に陥れるか、あるいは世界を統一するか、と伝えているからだ。天卵が王宮から追われているのはこの言い伝えのためさ。レルム・ハン国の王様にとっちゃ、天卵で生まれた者が国を乱すかもしれないし、王の座を脅かすかもしれないってことだからな」
 お父様もそうおっしゃっていた。だから、王宮に天卵の存在を知られてはならないと。
「でも、王宮の偵察隊のレイブンカラスに見つかって、追手から逃れるために白の森をめざしました」
「どうして森に?」
 そうか。ディアはこの島から出たことがないから、白の森のことを何も知らないんだ。
「白の森には人が入ることができないからよ。国王様でも」
 なぜ、とディアの好奇心はとまらない。
「森の周囲は木や蔦が網の目のように生い茂って閉ざされているの。入ろうとすると木が枝やつるを伸ばして弾き飛ばされる」
「でも、ルチルは入れたのでしょ?」
「心からの祈りが白の森の王に届けば、森は開かれる」
 ルチルは答えながら、ディアの次の「どうして」は避けなければと強く思った。「どうしてずっと白の森にいなかったの」と尋ねられれば、森の危機について話さざるを得なくなる。ノアは蝕のことを知っているのだろうか。白の森の秘密について、私が語るわけにはいかない。どうしよう。
「ここはどうして『隠された島』と呼ばれているのですか」
 ルチルはディアの関心を白の森から遠ざける質問をする。
「常に嵐に守られている、といったな。だが、それはない。見てわかるように、嵐どころか、多少の風はあっても海は穏やかだ」
「じゃあ、どうして?」
 ディアの「どうして」が方向を変えたことに、ルチルは胸をなでおろす。
「浮島だからさ」
「浮島? なに、それ」
「海に浮いていて、海流にのって漂流する。小さい島だし、地図にも描かれていない。船乗りたちの間で噂になったんだよ。行きはあったのに、帰りの航海では忽然と消えていたってな。それと……」
 とノアが窓の外を指さす。
「あの山の磁場の影響で島の周りはコンパスが狂う。いわゆる魔の海域さ。それもあって『隠された島』と呼ばれるようになった」
「ふうん。葉っぱの小舟みたいなのね。好きなところに進んだりできるといいなあ」
 ディアが無邪気に笑う。
「さあ、どうかな。食事がすんだなら、おまえも陽が陰る前に風呂につかってこい」 

「お互い、まだ言えないことを腹に抱えているだろ」
 ディアのよく響く声が遠ざかるのを待って、ノアがルチルの前に湯気のたゆたうカップを置く。窓辺でにぎやかにさえずっていた小鳥たちはいっせいに姿を消し、明るい歌声を輪唱で追って飛んでいった。もちろんヒスイも。
「ここには好きなだけ居てくれていい」
「頼るあてのない私にはとてもうれしい。でも、迷惑をかけることはまちがいないでしょう。王宮に見つかるかもしれない。とんでもない事態に巻き込んでしまうかもしれません」
「ああ、そうだな。だがまあ、それも縁というものだろ。あるいは運命ともいうか。ここに流れ着いたということは、天の意思もあるんじゃないのか。俺もやり残したことがあるからな」
「それに、そいつを」とノアは籠のなかで光る天卵に視線を向ける。
禍玉まがたまにするわけには、いかんだろう」
 この島にたどり着いて他人目ひとめを気にしなくてよくなったからだろうか、それともルチルの心が緊張から解放されたからだろうか。天卵は輝きを増している。
 白の森の王に「隠された島」をめざすよう勧められたとき、ルチルはうかつにも、そこに人がいる可能性に思い至らなかった。浜で目を開けたとき、人がいることに驚くと同時に警戒した。けれども、不用意にこちらに踏み込んでこないノアのようすに信頼してもいいのではないかと思いはじめている。少なくともノアは、ルチルよりもはるかに天卵とは何かを知っているようだ。お嬢様育ちのルチルは、赤ん坊の育て方すらまるで見当がつかない。もうカシはそばにいないのだ。ノアに教えを乞うしかない。
「とろこで、ハクは元気か」
 先ほどうまくかわしたと思っていた話を不意にふられルチルはうろたえる。
「ひょっとして蝕がはじまったか」
 ノアのほうから核心に触れてきて、ルチルは気管がつまり心臓がぎゅっとなる。
「はは、図星か。ハクがいったん懐に受け入れた雛鳥、それも天卵を抱えた雛鳥を危険に晒すような行為にでるとは考え難いからな。何かあったのかと思ったのさ。警戒しなくとも、蝕とは何か心得ている」
 ノアは顎をなでる。
「それにしても、周期が早いのが気になるな」
 腕を組んで椅子の背に深くもたれる。
 蝕の周期まで知っている。ノアとはいったい何者なのだろう。白の森の危機について話してもいいのだろうか。シンは、一連の森の危機は蝕について知るものの仕業ではないかと疑っていた。ならば、ノアも疑うべきなのか。わからない。わからない。誰か教えて。
 ――自分の頭で考えることさ。
 シンの言葉が耳の奥で響く。
「ノアはどうして白の森のことに詳しいの」
「言ったろう、ハクとは古い知り合いだって」
「でも、白の森の王は隠された島がどこにあるか知らないと。それに‥‥。隠された島にノアがいることも教えてくださらなかった」
「ハクは白の森から出たことがないし、あいつは森そのものだから、そもそも出ることができない。この島のなりたちも知らんだろう」
「島のなりたち?」
「この島はもとは白の森につながる半島だった。ほら、そこの窓から山が見えるだろう。あの山、ヴェスピオラ山が噴火して大陸から切り離された。カーボ岬はそのときにできた崖さ」
「私はカーボ岬から海に飛び込みました。追手から白の森を守るために」
「そうか……」
 ノアは口を半ば開けたまま顎を撫でる。
「よくその覚悟ができたな、たいしたもんだ」
 華奢な娘にみえるが、芯にはつよいものを秘めているのかもしれない。天卵の母に選ばれるだけのことはある。
 ノアはルチルをしげしげと見つめる。
「一つ忠告しておくが、山の中腹にある泉より先には行くなよ」
 ルチルは、どうして、と首をかしげる。
「泉より先は迷いの森になっている。あの山は嘆きの山ともいって、寂しがりやでな。山にやって来るものを迷わせて楽しむ。君みたいな素直なお嬢さんなら、からかいがいもある。えんえんと迷わされるぞ。だが迷いの森は遊びみたいなもんだ。もっと危ないのは」
 迷いの森以上の危険があるというのか。驚いて顔をあげる。
「山頂付近は磁場が強くて、うかつに近づくと火口に飲み込まれる。ぜったいに近づくな。休火山で火口は湖になっているが、風呂に使えるぐらいの湯は沸いてるんだ。火口がどのくらいの熱水を吐き出しているかはわからん。鳥たちも山頂は避けて飛ぶ。知らずに通る渡り鳥たちが次つぎに墜落していくのを目にしたこともある。彼らにとっちゃ、とんだ災難だ。島の位置が海流の影響で変わるんだからな。例年の飛行ルートに島が移動していれば一貫の終わりさ」
 なんということだ。ルチルは驚きで固まった口を両手で押える。
「天卵が孵ったら気をつけろ。ディアにもな」
「え、どうして」
「あの子も山の危険性はわかってる。一人ならなんとかなるだろう。そのくらいの知恵と経験も積んでいる。だがな、自然や大きな力というのは時に理不尽なんだ。幼子を連れてると……何が起こるかわからん」
 ディアのくるくるとよく回る大きな瞳を思い出す。あの目でにっこりされたら、断れるだろうか。無邪気にさえずるように途切れることなく話すディアを止められるだろうか。
「ディアはすでに君にむちゅうだ」
 遠くから小鳥たちのコーラスを従えた明るい歌声が近づいてくる。
「そろそろ島から出て人とふれあわせようと考えていた。だから、ルチル、君が島にやって来たのは、渡りに船というのかな、ありがたいと思っている。ディアのこと、よろしく頼む」
 ノアが両手を膝について頭をさげる。
 どうして「隠された島」と呼ばれる孤島に親子二人だけで暮らしているのか。母親はなぜいないのか。訊きたいことは山ほどある。だがそうした質問をうまく躱された気がする。
 ――ものごとには、すべからく「時」というものがある。
 お父様がよくおっしゃっていた。今はまだ、その「時」ではないのかもしれない。

* * * * *

 島についてから天卵は、呼吸を解放するかのようにゆるやかな明滅を繰り返していた。小鳥たちもはじめは「この卵光ってるわよ」「変なの」と口やかましく騒ぎたてくちばしで突っつく不届者ふとどきものもいたが、そのたびにディアが「こらあ!」と追い払ってくれていた。ある朝、青い羽のオオルリが自分よりもずっと大きい天卵の上にうずくまり卵を温めだした。すると真似るものが日に日に増え、オレンジや青や緑の多彩な羽がにぎやかに席取りをする。それを天卵もよろこんでいるようで、鳥たちの鳴き声に合わせて歌うように明滅していた。
「温めたら孵るってもんでもないんだけどな」
 本能なのか、と鳥たちのようすにノアは苦笑しながら、心の臓の音を聞かせてやるといい、と教えてくれた。家事が一段落するとルチルはできるだけ卵を抱いていた。天卵を慈しんでやっているというより、わたしが慰められているのかもしれない、とルチルは卵に頬ずりする。
 自身が何もできないことを思い知り、ルチルは日々へこんでいた。
 世話になるのだから手伝いをさせてくれと申し出た。
 それなのに。料理ができないのは致し方ないとしても、洗濯のしかたすらわかっていなかったことが情けなかった。
 小屋の裏を流れる小川に洗濯物を運ぶと、ディアから長方形の板を手渡された。等間隔で溝が刻まれている。
 ――この板は何? これも洗うのかしら。
 振り返ると、ディアはてきぱきと洗濯物を二つのたらいに選り分けているさいちゅうで尋ねるのがためらわれた。
 腕まくりをして川べりに立膝になり右手につかんだ板を川につける。左手で洗おうと前のめりになると、水流が想像以上に速く、板はするりと滑って流れにもっていかれてしまった。あっと思った瞬間に、ルチルは姿勢をくずし派手に水の跳ねる音を立てて顔から川につっこんだ。
「どうしたの!」
 ディアが叫んで、腰から引きあげてくれた。
 とっさに両手を川床についたため、顔を水面に激しく叩きつけたくらいですんだが、上半身はびしょ濡れだ。
 あはははは。ディアの明るい笑い声が響く。
「ルチルは自分を洗濯したんだね。お陽さまが元気だからすぐに乾くよ」
「ごめんなさい。板を流してしまったの」
「だいじょうぶ。葦の淀みでひっかかってるはずだから。待ってて」
 言い終わらないうちにディアは駆け出し、ほらね、と板をもって戻ってくると、しなびた薄茶の草を一束ルチルに渡す。葉の裏にぬめりがあった。
「この石鹼草を濡らしてよくもんで、板の上でこするの」
 ディアが板に押しつけて擦るにつれて、細かな泡がどんどん生まれ膨らんでいく。たちまち板は大小無数の泡で包まれた。それをほんの少し掌ですくいディアがふっと息をふきかけると、陽の光を浴びて七色に輝く小さな泡が空にただよい弾けた。ふふ、とディアが笑って振り返る。
「光の泡で洗うときれいになるよ」
 泡立った板に衣服を押しつけ揉むように洗いはじめた。
「ルチルは洗濯板を知らないんだね」
 ディアはふしぎそうに首をかしげる。
「シーツとか大きいものはたらいにつけて、足で踏んで洗うんだよ」
 スカートの裾をもちあげ歌を口ずさみながら、たらいの中で楽しそうに足踏みしている。
「ほら、気持ちいいから、ルチルもやってみて」
 一事が万事こんな調子で、床の水拭きから山羊の乳の搾りかた、竈の火のおこしかたまで、年下のディアにすべて教わらねばならなかった。自らに向かって吐くため息は心の底に澱となって沈殿していく。
「お嬢様って何もできない人のこと?」
 夕食の席でディアが訊く。悪気はかけらもないことはわかっている。思ったことが言葉になるだけ。わかっている。でも、さすがにこたえる。
「できないんじゃなくて、しなくてもよかったというだけさ」
 ノアが七輪で焼いていた魚の串をはずして皿に盛りつける。
「どうして?」
 ディアの「どうして」がまたはじまった。
「代わりに料理をしたり、掃除をしたり、洗濯をしてくれる人たちがいる。そして、その人たちの仕事を奪っちゃいけないのさ」
 カシや召使いたちがすべてを整えてくれることをルチルはこれまであたりまえのことと疑わなかった。
「へえ。つまんないね」
 うつむいてスープを啜っていたルチルは、はっとして顔をあげる。
「床を水拭きすると、す―っと滑って楽しいし。魚釣りも洗濯も山羊の乳を搾るのも、どれもすっごく楽しいのにね」
 ディアは家事を労働だと思っていない。遊びのひとつなのだ。ディアとなら天卵から孵った子も、毎日を楽しめる、どんな状況でも生きていける子に育てられそうな気がする。
 卵が孵るまでに手際は悪くともあらかたの手順を覚えることができたのは良かった。一日の仕事を終えると赤ん坊の服のこしらえ方をノアが教えてくれた。ディアとおしゃべりをしながら、服を縫い、糸を紡いで靴下を編んだ。情けないほど不格好なできではあったけれど。
 それにしてもこれらの布や白蝶貝のボタンは、どこで手に入れたのだろう。布まで作っているようすはない。
「近くを通る船に交換してもらうのさ」
 汲みたての清水や新鮮な山羊のミルクは重宝される。
「航海で貴重なのは水だからな。たいてい欲しいものと交換してくれる」
 近づいてくる船影や船団を見つけるとギンが報せる。気前よく取引に応じてくれた船は、帰りの航海で島が消えていることに驚き「隠された島」との通り名が広まったらしい。
「あたしもね、その、ブツブツコウカンていうのに行きたいって、もう何度も何度もお願いしてるんだけど。まだ、一度も連れてってくれないの」
 ディアが頬をふくらませる。また今度な、とノアが立ち上がる。
 ノアは何を恐れているのだろう。どうしてディアを隠したがるのだろう。
「隠された島」とは、ディアを隠すための島のようだ、とルチルは思った。

 
 美しい満月の夜だった。
 ルチルとディアは一年でもっとも美しい月夜を楽しもうと、海をのぞむ草原に並んで座っていた。二人のあいだに天卵の籠を置いて。ヒスイはディアの肩に止まっている。
 夕陽が群青に透ける闇をつれて水平線の彼方へと遠ざかってゆく。入れ違うように闇を統べる白い月が姿をあらわし、海原は透明に輝きはじめた。 
 白い月光が草原を明るく照らす。すべてを支配する太陽の明るさではない。闇を透明にする明るさだ。世界が澄んでいく。ルチルの胸の澱も晴れていくような気がした。群青の波間に白く月の道がたゆたっている。
 ルチルは天卵を身に宿してからのことを思い返していた。
 たった二月ふたつきほど前のことなのに、以前の暮らしは遠い昔のことに思える。トビモグラに守られながら地下を駆けているとき、「これは悪夢で目が覚めれば屋敷のベッドにいるのよ」と頭の奥で繰り返していた。それが今ではどうだろう。この草原に天卵といること、ディアと月を眺めていることこそ確かな現実で、屋敷で過ごした日々のほうが幻のように思える。島に来て、何ひとつ満足にできないと知った。父母の大きな羽の下で雛鳥として守られることに満足し、世界を見ようとも飛び立とうともしてこなかった。自らの毎日が誰かの労働によって成り立っていることにも無頓着だった。手があかぎれで荒れ、柔らかな足裏がまめで固くなろうとも、自らの体を駆使することは、今ここで生きている、そのことを確かな手触りで実感させてくれる。
 この月はお父様とお母様を、カシを、ブランカを同じように照らしているのだろうか。シンはラピスを抱いて白の森から月を眺めているだろうか。それぞれの場所に、それぞれの生きる現実がある。
 そういえば今夜はディアが静かね。そっと隣に目をやると、ディアは惹きこまれるようなまなざしで月を見つめている。海風がディアのオレンジの髪を巻きあげ、月と同じ色に輝く。
 月光に呼応するように、脇に置いていた籠のうちで天卵が明るく瞬きはじめた。みるみる光量を増していく。ディアも気づいたのだろう。二人で顔を見合わせる。
 月が中天に昇りきったそのときだ。ひときわ鋭い月光が一条まっすぐに天卵を射た。するとあたりの闇を薙ぎはらうように、卵が燦然と黄金の光を放ちはじめた。あまりの眩しさにルチルは一瞬、目をつぶる。
「父さん、卵が!」
 ディアが叫ぶよりも早く、ノアがたらいと木桶を携えて駆けてきた。
「今夜あたりじゃないかと思っていた」
「天卵が孵るのでしょうか」
「ああ。天卵は満月の夜に孵るといわれている。しかも、一年でもっとも力の高まる望月もちづきを選ぶとは。この卵が天命を背負っていることはまちがいないようだ」
 天卵は煌々と輝きを放つ。
 まるで月光のエネルギーを吸い取って自らの輝きに変えているようだ。光と光がつながりあい拮抗する。月から降りそそぐ銀の輝きと、地上から放たれる黄金の輝き。それらが中空で弾けあい光の粒が散乱する。
 なんて美しいのだろう。
 ルチルは恍惚として「いのちの…輝き」と小さくつぶやく。
「まさにいのちの輝き、この世に生まれるという覚悟の光だ」
 籠に手を伸ばそうとするディアの肩を押さえながらノアがこたえる。
 卵は天頂に達するほどのまばゆい光のきらめきを放った。
 あたりが昼のように輝く。
 ピシッと鋭い高音をたて殻にひびが入る。稲妻が走るように亀裂が広がっていく。
 卵が割れる。天卵が孵るのだ。
 ルチルは籠の脇に膝をつき、両手を胸の前で固く握りしめ喉の奥をぎゅっと縮こませる。ディアは父の手を振りほどきルチルの肩を抱く。ノアは立ったまま娘たちと天卵を見守る。ハヤブサのギンは草原の真上であたりを警戒しながらホバリングしていた。ヒスイはディアの肩に止まり美しい尾をぴんと張っている。小鳥たちも次つぎに集まってくる。五頭の山羊たちは、白い顎ひげが地面に届く長老山羊を囲んで光におののき固まっている。山からサルやイノシシも降りてきた。島中の生きものたちが集まってくる。天卵の光を遠巻きにして、生きものたちの輪が幾重にも取り囲んでいた。
 亀裂が卵の両端に達すると、天に向かってひときわ強烈な閃光が放たれ、殻が粉々に弾け飛んだ。打ち上げ花火のように目的の高度に達した光はかさとなって開き、地上にまばゆく澄んだ黄金の光の粒が降る。
 おぎゃ、ほぎゃ。ほぎゃあ。
 光に目を奪われていたルチルは、静寂をはらう泣き声にはっとして視線を地上にもどした。まぶしい光に目をすがめ籠のうちを見る。
 黄金の髪を額にはりつけた頭がみえた。横を向いてこちらに背を向けている。ルチルは目を細めたまま視線をゆっくりと左にずらし、そこで目を見開いた。赤ん坊の足もとにもう一つ頭があったのだ。こちらは銀髪だった。互いの顔を寄せ合い、二つの勾玉が向かい合うような形でおさまっていた。
「なんと、双子か」
 ノアも驚きの声をあげる。

第6章「孵化」 <完>

第7章「もうひとつの卵」に続く。


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