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『オールド・クロック・カフェ』  ほっと謎とき篇(1)

 その店は、東大路から八坂の塔へと続く坂道の途中を右に折れた細い路地にある。古い民家を必要最低限だけ改装したような店で、入り口の格子戸はいつも開いていた。両脇の板塀の足元は竹矢来で覆われていて、格子戸の向こうには猫の額ほどの前庭があり、白紫陽花が軒下で雨を待っている。格子戸の前に木製の椅子が置かれ、メニューをいくつか書いた緑の黒板が立て掛けられていなければ、そこをカフェと気づく人はいないだろう。

 そのメニューが変わっていて、黒板には、こんなふうに書かれている。

Old Clock Cafe

6時25分のコーヒー       ‥‥500円
7時36分のカフェオレ      ‥‥550円
10時17分の紅茶         ‥‥500円
14時48分のココア        ‥‥550円
15時33分の自家製クロックムッシュ‥‥350円

 なぜメニューに時刻がついているのかはわからない。そこにどんな秘密があって、何を意味しているのかも。ときどき、この風変わりな黒板メニューに目を止めて、開け放たれた格子戸から中をいぶかし気に覗きこむ人がいる。

 いらっしゃいませ。ようこそ、オールド・クロック・カフェへ。
 本日は、ご一緒に、メニューの謎を考えてみませんか。

<登場人物>
カフェ店主:桂子
ガラス工芸作家の常連:泰郎     
  宇治市役所職員:時任正孝  
カフェの元オーナー:桂子の祖父 
  泰郎の娘:瑠璃 
          正孝の元恋人?:環         


* * *Play with Time * * *

 梅雨どきにはまだいくぶん早く、五月の末の京は過ごしやすい。軒先の簾の汚れを払いながら、桂子は空を見あげる。陽はもう東山の峰から昇っているが、西向きの前庭はいいあんばいに陰っている。つくばいの隣で五分咲きの白紫陽花が雨を乞うようにかんばせをあげ微笑む。紫やピンクの紫陽花も華やかでいいが、桂子は白紫陽花の清廉さが好きだ。たっぷりと水を遣ると、飛び石にも打ち水をする。藤色の麻の暖簾が、ひかえめな朝の風に裾だけを揺らしていた。
 からからと滑らせた格子戸は、風を呼び込むため開けたままにしておく。少し早いけれど、先日、泰郎に手伝ってもらって籐の椅子に入れ替えた店内は、夏のしつらいが目に涼しい。
 ちりん、ちりん。
 茶わん坂で工房を営むガラス工芸作家の泰郎はカフェの常連で、彼の作品の風鈴が軒を通る風に声を響かせる。
 今朝は、泰郎と正孝とどちらが先だろう。ケトルを火にかけながら、桂子はくすっと笑む。


 宇治市役所勤めでまじめだけが取り柄の正孝は、初めて訪れたバレンタインの日以来、週末になると朝からカフェに通うようになった。
 バレンタインの翌週の土曜の朝のことだ。
 九時きっかりに格子戸が開いた。
 店内に三十二台もある柱時計のいくつかが九時の時を打つのと重なるように、からからと格子戸が音をたて、正孝が白い息に眼鏡を曇らせながら入ってきた。鼻の頭と頬が赤くなっている。細雪ささめゆきが舞うなか門の脇あたりで時間になるのを待っていたのだろうか。

「いらっしゃいませ。さっそく来てくれはったんですね」
 声をかけると、照れた笑みを片頬に浮かべたのだが、すぐに、カウンターで新聞を広げコーヒーを飲んでいる泰郎に気づき、えっと小さく驚いたのが曇った眼鏡ごしにもわかった。
 泰郎はちらっと正孝を目の端でとらえると、手もとの新聞に視線をもどす。先週、環とやって来た男だと気づいたのだが。どうやらあの日、この冴えない男は環ちゃんに振られたようで‥‥いや、聞き耳を立ててたわけやあらへんで、聞こえてきたもんはしゃあないし、せやから、「おはようさん」と挨拶したもんかどうか、けど、まるっきり無視といのもなあと、決めかねていた。
 すると、男の方が先に口を開いた。
「あの‥‥。開店は九時からやないんですか」
 ええ、と桂子は微笑む。
「八時からですか」
「八時からとか、決まってなくて。泰郎さんがお見えになったら、店を開けるようにしてます」
「泰郎さんは、うちが小さいころからの常連さんで。毎朝、来てくれはるんです。掃除が済んでなくても気にしはらへんから、とりあえず、泰郎さんが来はったら店を開けるようにしてます」
「そんな、ええかげん‥‥」と言いかけて、正孝は自分の失言に気づき、その先の言葉をのみこむ。
「ええかげんやないで、こういうのを、ええあんばい言うんや」
 泰郎がばさっと新聞をたたんで、にっと笑い、ドヤ顔で正孝を見る。長年の習慣に桂子のお墨付きをもらったことが、よほど嬉しかったとみえる。その泰郎のあからさまな上機嫌さにか、あるいは自分が一番乗りでなかったことにがっかりしたのか、正孝がかすかにムッとしたのに桂子は気づいた。
「こっちに掛けるか」
 泰郎がじぶんの隣を指し、新聞を片付ける。
「いえ、ぼくは時計を見に来たんで」
 正孝はそっけなく返して前庭側のテーブル席まで行くと、振り返って桂子に「ここ、いいですか」と尋ねた。

 ――あのときは、どないしょうか、と思ったんやった。
 泰郎と正孝の初対面を苦笑まじりで思い返す。
 あの日、それ以上ふたりが言葉を交わすことはなかった。泰郎は工房を開けるため十時前にはいつものように帰って行き、正孝は(長居をもうしわけないと思ったのだろう)何度か追加注文をしながら、夕方の五時頃まで時計を眺めて過ごしていた。 

 翌日の日曜、正孝は八時四十五分に現われた。きっちり十五分だけ早くなっていて、桂子は吹き出しそうになった。
 格子戸を開けるなりカウンターにいる泰郎に目をとめ、すたすたと歩み寄る。胸ポケットに入れた革の名刺入れから一枚抜き取ると、
「昨日はあいさつもせんで、すみませんでした。時任正孝といいます」
 と直角に頭を下げてから、泰郎に名刺を差し出した。

「あんときは、えらい真面目な男やな、肩こりそうや、と思ってんけどな」
「あれは、おもろい男やな」
 平日の朝、サイフォンがくゆらせる深く熟した薫りとそのパフォーマンスに目を細めながら、泰郎がぼそっとつぶやいた。正孝のことを言っているのだと推測はついたけれど、桂子は首をかしげる。
「正孝君のことや」
 カウンター越しに桂子が置いた淹れたての一杯をひと口すすり、泰郎は満足気に片頬をあげる。
「まあ、なんていうか。噛めば噛むほど味のでる酢昆布みたいなやっちゃ」
 泰郎はじぶんで言いだした「酢昆布」という表現が気にいったのか、「ほんまに酢昆布みたいや」と繰り返しては、にたにたしていた。

 正孝は来店時間をきっちり十五分ずつ早めていった。この人自身が時計みたい、と桂子は思った。
 翌週の日曜の朝、八時十五分に訪れたとき、店内に泰郎の姿はなかった。
「やっと泰郎さんに勝てた」と、いつもは平坦な顔をほころばせた。 

 それからだ。どちらから言い出したわけでもないのだが、ふたりは一番乗りを競いはじめた。だが、泰郎が言うには
「できるだけ早く来るいうんは、桂ちゃんに迷惑がかかるやろ。それに、近所に住んでる俺のほうが有利や。そんなんおもろない。せやから、俺はいつもどおり時計も見んと来る。ほんで、あいつに勝ったときには『よっしゃ』と思うし、負けたときには『くそっ』となるんや」
 どうやら正孝もそのあたりの機微を心得ているようで。
 八時十五分から八時半までのあいだの様々な時刻に訪れるようになった。正孝は宇治から京阪電車に乗ってくるのだから、電車の時刻は決まってるし、似たような時間になってしかるべきなのに。「ええあんばい」という泰郎の最初のひと言にこだわっているのか、けっこうな幅がある。
 そこが桂子には不思議でならない。
 京阪の清水五条が最寄り駅だが、七条か祇園四条で降りたりしてはるんやろか。それか八坂さんでお参りしたり、清水きよみずさんへ寄ったりしてはるんやろか。建仁寺さんや六道珍皇寺さんやら、お寺さんはぎょうさんあるし。
 そんなことを考えている自分に気づいて、桂子はくすくすとひとりで笑みをこぼす。ほんま、泰郎さんの言うとおり「おもろい」人やわ。
 瑠璃ちゃんが結婚して、ちょっと寂しそうだった泰郎さんが、本人はそんなことない言うけど、近ごろなんだか楽しそうなのだ。
 おじいちゃんも、そうだ。

 そもそも正孝は時計がめあてだから、カフェの柱時計を集めた祖父に会いたがった。通い始めてしばらくしたころだ。
「おじいさんは、店には来られないんですか」と訊いてきた。
「時計のメンテナンスに、ときどき」
 と答えると、いつになく前のめりになって
「いつですか」と声を大きくする。
「いつとは決まってなくて。祖父の気が向いたときなんで。でも、正孝さんがお見えになる土日には、めったに来ないですね。たいてい、お客さんがいてはらへん平日の昼過ぎです」
 正孝はあきらかにがっかりしていた。だが、どうしてもあきらめられなかったのだろう。
「次はいつ来られるか訊いていただけませんか。ぼく、その日に有休をとりますから」
 そこまでして、と思ったけれど、正孝のまなざしがあまりに真剣なので「ほな、訊いときます」と請けおったのだった。

「ほんまに有休を取らはるとは、思わんかったわ」
 桂子は豆を挽きながら瑠璃にいう。
「正孝さん、桂じいちゃんのこと師匠って呼んでるんやって?」
 瑠璃は、桂子の祖父のことを「桂じいちゃん」と呼ぶ。はじめは「桂ちゃんのおじいちゃん」と呼んでいたのだが、「舌噛みそう」といって早々と省略された。
「そ、おじいちゃんも、気に入ってるみたい。こないだ、弘法市にもいっしょに行ってたし」
 ふぅううん、と瑠璃がもの言いたげにカウンター席から桂子を見あげる。
「桂ちゃんさ、正孝さんのこと妬いてるんと、ちゃう?」
「へっ、なんで?」
 思わず桂子の声が裏返る。
「だってさぁ。これまでは、桂じいちゃんの一番は桂ちゃんやったやん。それが、最近は正孝さんと仲ええやろ」
 ああ、そうか、と桂子はようやく腑に落ちた。祖父が正孝を連れて東寺の弘法市に行くと聞いて、胸のあたりがなんかもやもやした。幼いころとちがって、最近では祖父に誘われても弘法市に行かなくなっていたのに。気持ちを瑠璃に言い当てられ、ようやくうなずけた。
 桂子も時計は好きだ。だが、仕組みや機械に興味があるわけではない。だから、ゼンマイやら歯車やら、ガンギ車だとかアンクルだとか、専門用語をまじえながら、ふたりで、こどもみたいに夢中になってるのが羨ましく、祖父が自分だけの祖父でなくなったようで寂しかったのだ。自らの幼い感情に気づいて苦笑がもれる。
「うちのお父さんも、あほな競争してるんやってな」
 はぁああああ、と瑠璃がことさらに長いため息をつき、
「男って、いくつになってもこども過ぎて、あほらしなるわ」と笑う。
 桂子のもやを晴らしてくれるのは、いつも瑠璃ちゃんだ。


 からからから。
 格子戸の滑る音がして、桂子はちょっとどきどきしながら戸口に目をやる。今日は、どっちが先やろ?
 藍の作務衣の袖がのぞく。
 ――あ、今日は泰郎さんの勝ちね。
「桂ちゃん、おはようさん」
「門の前でな‥‥」
 言いかけた泰郎に続いて、チノパンに半袖のポロシャツ姿の正孝が入って来た。
「正孝君とうたから、今日は引き分けや」
 泰郎がちょび髭を生やした口を大きく開け、「なっ」と正孝を振り返る。
「ほんでな、桂ちゃん」
 泰郎は正孝の腕をとってカウンターまで引っ張る。
「なんと! 正孝君がメニューの時刻の謎を解いたいうんや」
 えっ、桂子は驚いてまじまじと正孝を見つめる。
 正孝は照れ隠しだろうか、ひとさし指で眼鏡のブリッジをあげる。
 泰郎は正孝の肩をバンバン叩きながら、まるで自分が謎を解いたように得意気に胸を反らしていた。

(to be continued)

(2)に続く→
 


正孝と環の話は、こちらから、どうぞ。

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