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小説『ポルカ・ドットで、こんにちは』Dot:7

Dot:6は、こちらから、どうぞ。

 草原を緑の風がわたる。
 風になでられて草が波打ち、緑の海原が広がる。
 丘の縁は紺碧の海へと切り立つ崖だ。
 凛子はダークグリーンのコンバーチブルをなだらかな丘の背に停めると、頭に巻いた白地に黒のポルカ・ドットのスカーフをはずす。たちまちミドルレングスの髪が潮風にさらわれる。
 助手席から飛びおりたトロワが丘を転がるように下っていった。犬のジップが跳びはねながら追う。ナナは帽子をかぶるのをあきらめ、テンがナナの手を引いて駆ける。
 風が三人と一匹をからかって、気まぐれにびゅんと吹く。

 丘の中腹では遺跡発掘のため、草が刈り取られ、黒っぽい土壌があらわになっている。まるで緑の海に浮かぶ島のようだと凛子は思う。

 シュリーマンがホメロスの『イーリアス』を信じトロイアを発掘したのは、いつだったかしら。地層は歴史を抱いて黙して眠り、人は神話や伝承の名を借りて、真実の欠片をこっそりとひそませる。正史が語るのは勝者の歴史だとしたら。真実を求めるのは、ミノスのラビュリントスに迷い込むようなものね、きっと。アリアドネの糸でもあればいいけれど。
 いつかアヴァロンの島も見つかるかもしれない。アーサー王が眠るりんごの名をもつ島。湖の乙女が憩う秘密の園。ニンフが遊ぶ森へ、魔導士マーリンが導いてくれるかしら。モルガン・ル・フェは、アーサー王を治癒したアヴァロンの女王? それともアーサー王の姉? 騎士道の物語は、幾重にも巧妙に真実に鍵をかける。伝説に嵌め込まれた寓意を、誰か解きあかしてほしい。現実と虚構のはざまに真実はあると「虚実皮膜論きょじつひにくろん」を語った近松門左衛門にでも尋ねてみようかしら。

 コンバーチブルの傍らで枝葉を広げ、白い花を咲かせているりんごの木を凛子は見あげる。風が花房をゆらす。

 ケルトの妖精が棲む、海の彼方の常若とこわかの国ティル・ナ・ノーグにも、りんごがたわわに実っているという。なぜ、りんごなのかしら。アダムとイブの禁断の果実もりんご。ニュートンが万有引力を発見したのもりんご。そういえば、トロイア戦争の発端も黄金のりんごだったわね。りんごは、何を隠して、何を伝えようとしているの。

 草の海が波打つ。
 何千年もの昔、あの遺跡で暮らした父祖たちも、りんごを食べ、りんごの木の下でリュトンにシードル酒を満たし、豊饒を祝ったのだろうか。

 岬から丘へと続くカーブの坂道でハンドルを切っていると、船がひと声汽笛を鳴らして出航していった。すると、テンが「ベンじいが教えてくれたんだけどさ」と後部座席から身を乗り出して、「船が時計を進化させたんだって」と誇らしげに語っていた。テンはベンじいのいい教え子ね。
 大航海時代に機械式時計から腕時計が生まれ、スイスのキャビノチェたちは、直径5センチにも満たない小さな円盤に、永久カレンダー、ムーンフェイズ、ミニッツ・リピーター……それから、何があったかしら、そうね、とにかく宇宙を嵌めこんだ。腕におさまる宇宙がゼンマイで周る。
 凛子は華奢な左腕にはめたオメガのスピードマスターを陽にかざす。ドライブにはこの時計と決めている。宇宙も旅した時計。時を刻むだけでなく、座標軸も教えてくれる。あら、だとしたら、時間と空間はゆがむというアインシュタインの理論はどうなるの。

 チチェン・イッツアにあるマヤの神殿は、春分と秋分に蛇の胴体が結ばれるって、いつかキリが楽しそうに語ってた。春分と秋分にだけ神殿の奥まで日が射し込む遺跡は各地にあるらしいから。古代の人々は、豊かな実りを願って驚くほど正確な暦を作ったのね。
 植物と人との、繰り返される営みと恵み。
 そんな遺跡の欠片が、この緑の原からも見つかるかしら。

 鷹が高い空を飛んで行く。
 ああ、翼をひろげ、時空を超えて鳥瞰で世界をながめてみたい。

 緑の海原に浮かぶ発掘現場で、テンが大きく手を振っている。
 ジップが草原を跳ねまわっている。
 あそこに見えるのは、トロワとナナと。
 あら、もう一人いるのは、キリかしら。
 夕陽が草の海を黄金にそめていく。
 古代から休むことなく繰り返される地球の回転。
 凛子は手を振り返して、丘をくだる。


(to be continued)

Dot:8(最終話)に続く→
 
 



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