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『オールド・クロック・カフェ』4杯め 「キソウテンガイを探して」(3)

第1話から読む。
前話(第2話)は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
八坂の塔の近く、古い町家を改装した『オールド・クロック・カフェ』には、「時のコーヒー」という不思議なコーヒーがある。時計に選ばれた人しか飲めない「時のコーヒー」は、時のはざまに置いてきた忘れ物に気づかせてくれるという。店主の桂子が姉のように慕う瑠璃が、友人の環をともなってカフェを訪れる。「結果には原因がある」が信条の理系思考の環は、時のコーヒーなど信じないという。
ところが環に、16番の古時計が鳴った。瑠璃は、環が正孝のプロポーズをためらっていることを指摘する。
   <登場人物>
  カフェの店主:桂子
  カフェの常連:泰郎
    泰郎の娘:瑠璃
  瑠璃の友人:環
    環の恋人:正孝


* * * Old Scar * * *

 正孝が環にプロポーズしたのは、先週の木曜の夜だった。
 その日は環の30歳の誕生日で、祇園の石塀小路いしべこうじを抜けた先にあるイタリアン『イル・プリモ』の個室を予約してくれていた。
 籬に連なる門は檜皮ひわだの小屋根付きで、門には海老茶の麻の長い暖簾のれんがかかり、寒風をいなしていた。そこがイタリアンのリストランテであると知らねば、料亭と見まがう佇まいである。暖簾をくぐると御影石の玉砂利がのび、キャンドルを浮かべた青竹がぽつぽつと足もとを照らし入口へといざなう。
 正孝は肩に緊張を真一文字に張り、ぎこちない足取りで、環の三歩前を行く。
 ――無理して、似合わないところを予約しなくてもいいのに。
 関節にボルトでも入っている操り人形みたい。環はため息をつく。

 宇治市役所の総務部市民税課に勤める正孝は、まじめが服を着ているようなタイプだ。
 女子高時代の友人の詩帆に誘われて、しかたなく参加した婚活パーティで出会った。容貌も身長も性格も。どれをとっても、可もなく不可もなく、際立って目立つところもない代わりに、不快なところもない。その他大勢としておそらく誰の記憶にも残らない、そんな人だ。
 環の関心をひいたのも、「市役所職員」という一点にすぎなかった。

 女子高時代の昼休み、「結婚するならどんな職業の人がいい?」という他愛もない話で盛り上がったことがあった。医者とか、商社の海外駐在員とか、ベンチャー企業のオーナーとか、スポーツ選手とか。みんな好き勝手な夢を口にする。「環は?」詩帆があからさまに興味をぶらさげた瞳でうながした。美人だけど恋愛に無関心な環に、恋バナが日常生活の友人たちの視線が集まる。
 「市役所職員ね」
 まるで数学の問題に答えるように環が告げると、一瞬、空気が停止した。整理整頓と同音異義語のような日常業務を連想させる単語に、誰もが顔を見合わせる。きらきらとした希望や夢のオーラはかけらもない。
 沈黙をやぶったのは、瑠璃だった。
「えー、何それ」甲高い声をあげる。
「環、あんたそれでも女子高生? もう、なんか年寄りの発言みたい」
「市役所職員があかんの?」
 環が冷静にいなす。
「いや。現実的すぎて、ちょっとびっくりしただけ。超現実派の環らしいというか。ほんま、あんたはブレへんな」
 やれやれと瑠璃が首をふりながら、「ここにおるのは、女子高生の皮をかぶった異星人やろか」と環の肩をゆさぶる。周りから、どっと笑いが巻き起こった。午後の教室はまたたくまに蜂の巣のにぎやかさを取り戻していた。

 あの頃から、結婚するなら「市役所職員」と公言してきた。
 理由は単純明快だ。父が京都市役所職員だったから。
 堅実で誠実で、行動に不確定要素のない父のような人がいいと本気で思っていた。

 だから。パーティの席で律儀に名刺を差し出した正孝が、宇治市役所の市民税課係長と知って、環の心が1ミリだけ反応した。
 結婚にたいして熱意をもてない環は、特上の笑みを振りまきながら狩りにいそしむ詩帆にあきれ、早々と壁際の椅子に引っ込んでいた。本でも持ってくれば良かったと後悔していると、隣の席に男性が腰かけた。何の気なしにちらっと横に視線を走らせると、目が合ってしまった。
 すると、正孝が名刺を差し出したのだ。ビジネス教本そのままの礼儀正しさで。
 
 あれから2カ月ちょっと。仕事帰りに飲みに行ったのが3度。休日に出かけたのが2度。クリスマスも正月も会っていない。これを世間では付き合っているというのだろうか。環としては、男友達の一人くらいの感覚だった。
 はじめて巡ってきた環の誕生日に奮発したのかと思うと、冬の夜気にため息が白くにじむ。言っておけばよかった。
 環は誕生日が嫌いだ。


 22年前の1月31日。
 その日、8歳になった環は、胸を躍らせながら学校から走って帰った。背中のランドセルで筆箱の中身が、かたかたと、はずむ気持ちに伴奏をそえる。誕生日のごちそうとケーキの甘いにおいが、家中に満ちているはず。プレゼントはシルバニアファミリーのキッチンセット。お願いしたもの。

 息せき切って帰宅すると、玄関前で大きく深呼吸する。
 お母さんに聞こえるよう大きな声で「ただいまぁ」と言うために。母は台所から顔だけのぞかせて、「手を洗ったら、ケーキのデコレーション手伝って」と言うにちがいない。
 玄関扉に手をかける。
 ガチャ、ガチャガチャ。
 あれ? 開かない。鍵が掛かっている。
 ――お母さん、買い物に行ったのかな。
 うっかりものの母は、買い忘れをして、あわててスーパーに走ることがよくあった。もう、またかぁ。
 環は玄関脇のアヒルの置物をのけ、鍵を見つける。
 しんと静まり返った玄関で小さく「ただいま」というと、まず台所をのぞいた。テーブルには泡立て途中の生クリームがボールの中で分離して、白い泡のなれのはてが、だらしなく浮遊していた。それを人差し指ですくってなめてみた。甘い。けど、おいしくない。ピンと角が立つほど泡立っていないクリームは、油脂の浮いたねっとりとした甘ったるい液体だった。オーブンではスポンジケーキがふくらまずに真ん中からへたっている。
 台所には「がっかり」が散乱していた。
 家の中はどこもがらんとして冷気がはびこり、冬の薄い陽が力なくリビングのソファに影を投げていた。
 2階の自室にランドセルを置くと、隣の父母の部屋をのぞいた。ここにも母はいない。クローゼットが開けっ放しになっていて、服が何枚か床やベッドに散らかっていた。
 さっきまで胸を高鳴らせていた期待が、みるみるうちにしぼんでいく。
 階下に降りてテレビをつけてみたが、母の戻りの遅いのが気になりスーパーまで探しに行った。でも、母の姿は見つからない。商店街の店ものぞいてみたけれど、いなかった。行き違いになったのかもと、あわてて家に駆け戻ったが、帰っていない。
 待つ人のいない家の中は、寒風の吹きすさぶ戸外よりも、ずっと寒々しい。がたがたと体と胸の震えが止まらなくなった。
 環はめったに泣かない。
 けれど、このときばかりは、全身の水分が圧力に逆らって駆け上り、目尻から決壊しそうだった。
 まだ、泣いちゃだめ。
 ぐっと奥歯を噛みしめ、電話台の上に置かれたアドレス帳から市役所の番号を探してダイヤルを回した。
 覚えているのは、そこまでだ。

「環、たまき。大丈夫か。よくがんばったね」 
 耳朶じだにやさしく響く父の声にようやく気づいた。受話器を握ったまま嗚咽をしゃくりあげ号泣している環を、父が膝をついて全身で抱きしめてくれていた。涙と洟水はなみずでぐしゃぐしゃの顔を父がそっとタオルで拭ってくれる。泣き叫びすぎて声がかすれて出ない。頭も目ももやがかかったようで、視界が鈍くかすんでいた。
 そのときだ。インターホンが鳴った。
 ――お母さん! 
 心臓が飛び跳ねた。だが、聞こえてきたのは、隣のおばさんの声だった。

「奥さんのことでお伝えしたいことがあるんやけど。近所の手前があるから、玄関先まで入れてもらえんやろか」
「今、開けます」
 父はインターホンを切ると、立ち上がりかけた環に「環はソファで横になっとき」と言って玄関を開けに行った。
 ――おばさんは、お母さんがどこにいてるか知ってるんや。
 出て来るな、と父にやんわりと諭された環は、リビングの扉を少しだけ開け、壁にもたれて耳をそばだてた。

「お昼前に庭の片づけをしとったら、お宅に男の人が訪ねて来はったんやわ。しゃれたスーツ着てはって、セールスかと思った。セールスやったら、次はうちにも来はるかもしれんやろ。せやから、ちょっと様子をうかがってたら……」
「奥さんが大きなボストンバッグを提げて、男と一緒に出て来はって。あれれ、と思うて見てると、その先に停まってたタクシーに二人で乗って行ってしまいはった」
 そこで話を切ると、おばさんは首をのばして奥をうかがってから声をひそめた。
「まだ、帰って来てはらへんのやろ」
「こないなこと言うたら、あれですけど。男つくって出ていかはったんと、ちゃいますか。お宅の奥さん、美人さんやったし」
「そやったら、近所中に行方をたずねて回らはったり、警察に捜索願なんか出さはったら。変な噂が立ちますぇ。せやから、おせっかいとも思うてんけど、早よお知らせしとかなって」
 それだけまくしたてると、おばさんはそそくさと帰っていった。

 小学3年生の環には、「男をつくって出て行く」が何を意味しているのかはわからなかったけれど。母が帰って来ない、ということだけはわかった。
 泣き叫ぶ気力は残っていなかった。リビングの壁にもたれ、魂が抜かれたように腕をだらんと垂らしてへたり込む。
 涙だけがふた筋の川となって頬をとめどなく流れ落ちた。

(to be continued)

第4話(4)に続く→


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