『オールド・クロック・カフェ』4杯め 「キソウテンガイを探して」(2)
* * * hesitation * * *
大樹と泰郎を追いかけ、由真が格子戸をからからと滑らせて閉めると、ざわめきも戸外へと潮の引くように遠のいた。
時計も声量を落とし、いつもどおり気まぐれな時を刻む。
冬の淡い陽がためらいがちに射し、前庭と通り庭の両方の窓辺をほんのりと明るくする。
時計に囲まれたカフェは、逆説的に、時を忘れる静寂につつまれる。
瑠璃に連れられて入って来た女性は、オフホワイトのハーフコートを脱ぐのも忘れ、両手を胸の前でぎゅっとあわせて、壁の柱時計を端から一つずつ数えるように見て回っていた。店内は明るくもなく、暗くもなく、角のとれた冬の光が、時計のそれぞれにやわらかな陰翳をつけ、埃のダンスを浮かびあがらせている。
「すごいやろ」
瑠璃がその背に得意げな声をかける。
「環に見せたかったんだ」
瑠璃は黒目がちの大きな瞳が印象的で、ビスクドールのような顔立ちだ。環と呼ばれた女性は、切れ長の双眸が理知的な美人だった。興奮と驚きで虹彩を輝かせ、瑠璃を振りかえる。
「まるで時計の博物館ね。いったい、いくつあるの?」
「ぜんぶで32台です」
泰郎たちが先ほどまで居たテーブルを片付けながら、桂子が答える。
「祖父が大の時計好きで。東寺の弘法市や寺町のアンティークショップで見つけるたびに買い求めたそうです」
えくぼを深くしてほほ笑む桂子の肩に手を回し、瑠璃は
「この子は桂ちゃん。うちの妹やねん。かわいいやろ」と自慢する。
「何いうてんの。瑠璃は、わたしと同じで、父ひとり娘ひとりの一人っ子やろ。まあ、同じいうても、瑠璃のお母さんは事故で亡くならはったけど、うちのお母さんは……」
しだいに声を細らせ自嘲ぎみになり、環はハッとして口をつぐんで時計に視線を戻す。
瑠璃はそれを気にするふうでもない。
「ここの時計には、不思議な力がある……て言うたら、どうする? 理系思考の環ちゃんは」
大きな瞳を揶揄うように揺らす。
「あほらし」環はそれを一蹴する。
「物事には必ず原因と結果がある、やったけ?」
わざとらしく首を傾げながら、瑠璃は環の顔をのぞきこむ。
「そう。世の中で超常現象といわれているものにも、ちゃんと理由がある」
何をあたりまえのことを、と環は呆れ顔で見返す。
「ああ、もう。環とは高校からの付きあいやけど。ときどき、無性にこのかっちんこっちんの頭をもみほぐしたくなるわ」
「はあ? 何いうてんの」
環はじぶんに向かって伸びてきた瑠璃の手を払いのける。
そのやりとりを背後で眺めながら、桂子は、ふふっと笑みをもらす。
――瑠璃ちゃんが、いつも以上に生き生きしてる。
祖父から店を継いで一年になるが、瑠璃が誰かを連れてきたのは初めてだ。だいたい瑠璃がカフェにやって来る目的は、桂子とおしゃべりをするためだから、いつも一人でふらっと現れる。だから、今日、環を連れて来たのには、何か理由があるのだ、きっと。
「時のコーヒー」
ぽつり、とつぶやくと瑠璃は壁の柱時計をぐるりと見渡す。
何それ?と言いたげに、環は瑠璃を見る。
「ここの時計には不思議な力がある、言うたやろ」
「それが、時のコーヒー」
「時計に選ばれた人しか飲めない特別なコーヒーで。飲むと、時のはざまに置いてきた忘れ物に気づくことができる」
また瑠璃はわけのわからんことを、と環がため息をつく。
瑠璃は肩越しに振り向いて、テーブルを拭いている桂子に話をふる。
「うちでは信じてもらえんみたい。桂ちゃんから、この頭の固い人に説明してくれる?」
桂子は突然の瑠璃からのむちゃぶりに戸惑いながらも、盆をテーブルに置いて姿勢をなおらい、にこりとほほ笑む。
「環さん、とお呼びしてもよろしいでしょうか」
もちろん、と了承するのを確かめてから、桂子は続ける。
「カウンターの後ろに小抽斗がたくさんついたアンティークの箪笥があるのが、見えますか」
ええ、と環がうなずく。
「抽斗には、1番から32番までの番号が付いています。同じように、時計の脇にも番号を記した真鍮の板が」
環が近くの時計に歩みより側面を覗きこむ。
「時計と抽斗の番号は対応してて、抽斗にはそれぞれに違うコーヒー豆が入ってます。注文をとるタイミングで時計の一つが、時刻でもないのに鳴ることがあって。その鳴った時計の番号の豆を挽いて淹れるのが『時のコーヒー』です」
桂子は一拍だけ息をつぐ。
「時のコーヒーを飲むと、たちまち眠りに落ちて。過去の忘れていた映像を見るそうです。それを祖父は、時のはざまに置いてきた忘れ物というてました」
環は眉をひそめる。
「時計に選ばれた人しか飲めない、ていうのは?」
桂子はわかってもらいたくて、論理的というにはほど遠くとも、できるだけ丁寧に説明しようと言葉を探す。
「わたしも信じられなくて、1番から順に試し飲みをしてみたんです。もちろん、時計が鳴っていないときに」
「32番まで飲んでも、ちっとも眠たくならへんし、なんにも起こらなかった。どれも普通に美味しいコーヒーでしかありませんでした。店を継いで一年になりますが、4人のお客様が時のコーヒーを飲まれました。どなたも、ひと口飲まれると、たちまち眠りに落ち、目覚めるとその方にとって大切な何かを思い出されて……」
そこで桂子は深くひとつ息をつぐと、瑠璃をまっすぐ見つめた。
「時計が鳴ってくれないと、同じ豆で淹れても、不思議は起こらない。時のコーヒーにはならないんです」
美しい切れ長の目を眇めながら、環は信じられないという表情で桂子と瑠璃を交互に見やる。ふたりとも、環の視線に動じない。環は一番手近にあった椅子の背もたれをつかみ、ためらいがちに言葉を口にのせる。
「だから、時計に選ばれた人しか飲めない……なのね」
「そう。それで、そのラッキーな4人の一人が、うちのお父さん」
どう、これで信じる? とばかりに、瑠璃がその高く筋の通った鼻梁を上に向ける。
「はぁっ?」
環がオクターブ高い声をあげ、語尾を跳ねあげる。瞳はまじまじと見開かれる。
「あの、それと……」
桂子がおずおずと声をはさむ。
「瑠璃ちゃんのお父さんと一緒にいた小さな男の子、ひろ君ていうんですけど、あの子のお父さんは4人めの時のコーヒーのお客様で。時のコーヒーを飲んで、ご自分にひろ君ていう息子がいることを知らはったんです。この3月から親子3人で茨城で暮らしはるそうですよ」
「えっ。まじ?」
先に声をあげたのは、瑠璃だった。
ああ、それなら、お父さんたちを追い払うんじゃなかった。
頭を抱えながら、瑠璃は「失敗したぁ」としきりにつぶやく。
環は呆然と立ち尽くしていた。脳内で桂子の話を反芻する。ときどき突拍子もないことを言いだす瑠璃は別として、目の前の桂子はいかにも誠実そうだ。その彼女がまっすぐな瞳で、妖しげなコーヒーのあり得ない力を話すなんて。結果には、何か原因があるはずよ。だるまストーブの内では、ほら、物理法則が燃えているじゃない。
「まあ、立ち話もなんやし、とりあえず座ろう。環もコートを脱いだら。桂ちゃん、お水をちょうだい」
瑠璃がパンとひとつ手を叩いて、その場をしきる。
その拍手で環は我に返った。ストーブの炎が前頭葉で揺らめいている。
「足もとが冷えるようでしたら、背もたれのブランケットをお使いくださいね」
コートを入り口近くのハンガーに架け、環が腰かけようとしたタイミングで桂子が、テーブルにグラスをふたつずつ並べる。片方のグラスからは白い湯気が陽炎のように立ち昇っている。
「こちらは柚子茶です。体があったまると思うんで、どうぞ」
「好きやから、うれしいわ。ありがとう」
環はゴブラン織りの椅子の背からブランケットを手にして腰かける。
ぼーん、ぼーん、ぼーん。
突如、くぐもったような重低音が空気を震わせる。
「鳴った!」
瑠璃が興奮して、テーブルに手をつき立ち上がる。
「桂ちゃん、どれ? どの時計が鳴った?」
「16番の時計みたい」
桂子は店の奥の壁を指さす。緑の横長の時計が、置床式の古時計の隣に掛けられている。古時計が目を引くため気づかなかったが、丸い文字盤の両脇に緑の翼のようなものが張り出していて、文字盤の下には剥き出しで二本の錘がぶら下がっている。風変わりな意匠の時計だ。
「環、飲むよね? 時のコーヒー」
瑠璃が大きな瞳を凛と張って環を見据える。
「瑠璃ちゃん、ちょっと待って。強制はあかん」
言いかけた桂子を、瑠璃は手で制し、視線は環に焦点を当てたまま、ぴくりとも逸らさない。こんな真剣な瑠璃を、環は未だかつて知らない。
瑠璃は標的を定めたハンターのような視線で宣告する。
「環、あんた、正孝さんからのプロポーズためらってるやろ」
(to be continued)
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