大河ファンタジー小説『月獅』57 第3幕:第14章「月の民」(6)
これまでの話は、こちらのマガジンにまとめています。
第3幕「迷宮」
第14章「月の民」(6)
『月世史伝』を読み終えたふたりは、どちらからともなく吐息をもらす。瞳は昂奮で爛爛としていた。
<彼らが去った後に、レルム・ハン国を建国したのでしょうか?>
シキが筆談で問うと、イヴァンがうなずき、
<西の果ての森とは、白の森かもしれぬ>と書き足す。
<では、イヴァン様やエステ村の人たちは月の民の末裔ですか?>
わからぬ、とイヴァンは首をふる。
<四村の民は、月の民の末裔かもしれぬし、あるいは、白の森と月の民を見張る番人であったのかもしれぬ>
番人……そう考えると、エステ村をはじめとする四村が白の森の四方を囲むようにあることもうなずける気がする。それよりも月夜見寮のことだ。シキはイヴァンに問う。
<月夜見寮と月の民の関係は?>
わからないと、イヴァンがまた首をふる。
月夜見寮が月の塔を基にしていることは『月世史伝』から推測できたが、それ以上の記録はない。月夜見士たちが月の民の秘された末裔であり、代々彼らだけにその秘密が口伝されてきたとすれば、とシキは考える。レルム人は星を信仰していたから、星夜見寮が優遇されるのだと恨みに思っているのかもしれない。六百年にわたる積年の恨みと妬み。昔からいがみ合ってきたのだろうか。
仮に月夜見士が月の民の末裔であったとして……シキは考えを巡らせる。なぜ彼らは天卵の子とともに西の果ての森に行かず、レルム・ハンの王城にとどまったのだろう。レルム・ハン建国の祖、初代ラムル王は月の民が月夜見寮に留まることを許しただろうか。シキは卓に肘をつき、左手にあごをのせ、思索の海をさまよう。沈思する顔を茜色に西日が染める。
ランプに火を灯そうと顔をあげたイヴァンは、シキの端正な横顔に息をのむ。ルチルがそこに居る錯覚に目をこする。星童のシキは男児であるはずだ。だが、はじめて会った日からかすかな違和感がある。ふとした瞬間に、娘ルチルの面影が重なるのだ。ウエーブのかかった栗色の髪に鳶色の瞳のルチルとは、まっすぐな黒髪に青い瞳のシキは似ていないはずなのに。
「やあ、すっかり日が陰ってきたね。今日はここまでにしよう」
瞳の奥に昂奮を宿し、シキが顔をあげる。陰翳に浮かびあがる聖女の絵を思い起こした。闇にまぎれぬ清澄な美しさ。その瞬間、ふいに尋ねてみたい欲望をイヴァンは抑えられなくなった。他人が秘匿していることを暴くなど趣味の良いことではない。だが、わが胸の裡に留めておくならば、そして力になれることがあるのであれば。娘を庇護するような気持ちを抑えられなかった。
手もとの紙に<シキは女の子なのか?>とペンを走らせる。
ぴくっとシキの肩がすくんだ。羽ペンの先に視点を合わせたまま塑像のように固まる。
イヴァンは答えを知った。
と同時に後悔した。<誰にも言わないから、安心しなさい>と慌てて記し、紙を暖炉に放りこんだ。紙片はたちまち、ちりちりと身をくねらせて炎にのまれた。
ようやくシキは顔をあげたが、その目は怯えていた。
「日が落ちてしまう前に気をつけて帰りなさい。明日も、また、おいで」
こくりと、うなずく。だが、もう二度と来ないのではあるまいかという予感がイヴァンの胸を悔悟とともに覆った。
巽の塔をよろよろと出ると、シキはやみくもに駆けた。イヴァン様に挨拶をしたのか覚えていない。赫き落陽を右頬に受けながら駆けた。行く手に斜めに影が伸びていく。とうとう恐れていたことが起きた。イヴァン様が私の秘密を漏らされることはないだろう。けれども、どんなに武術の鍛錬をしようとも、男のような筋骨にはならない。同い歳の星童ヨサムの声がふた月前にとつぜん低くなって驚いた。私の声は細く高いままだ。先日、めざめるとシーツが真っ赤に染まっていた。シキは悲鳴をあげた。駆け付けたラザールに「怖い夢を見ただけです」といい、布団をかぶった。怖い夢。そう、夢ならどんなによかっただろう。とうとう月の障りを迎えたのだ。胸はどんどんふくらんでいく。シキは自分の体が呪わしかった。
暁の門を出たところで嘔吐いた。胃袋が逆流する。吐いても吐いても、不安を吐き出すことはできなかった。
リンピアの丘から臨む東南の海上を赫い月が波間をゆらゆらとのぼる。西南の海に沈む茜の落陽の裾とまじわり、近づく闇に朱の海が浮かびあがっていた。
屋敷に帰ると、シキはベッドの下から薬研を取り出した。
ラザール様の書斎には鍵のついた本棚が一棹ある。
その鍵が開いていたことがあった。秘密の扉が開いたような昂奮を覚え、棚を物色し『本草外秘典』という薬学書を見つけた。シキが表紙を開けようとしとたん、背後からラザールの手がのびた。
「シキ、その書はいけない。禁断の書だ。それに記されている薬は人に処方することも、己で試すことも厳禁だ。薬はそもそも毒であるこを忘れるんじゃないよ」
ラザールが厳しい目をして立っていた。『本草外秘典』を棚に戻し鍵を掛けた。
鍵は書斎の袖机の抽斗にあることをシキは知っている。月の障りがはじまった日の午後、ラザールが出かけてからシキは書棚の鍵を開けた。はじめてラザール様と会った日、盗みを咎められたことを思い出した。罰は後でいくらでも受けよう、とシキは心に誓った。『本草外秘典』の頁を繰り、目的の薬の調合を写す。薬草のいくつかは山で採集し、耳猿の肝臓などは薬種店で手に入れていた。
薬研車を挽いて薬草をつぶす音が、ごりごりと月明かりに響く。
今宵の月は禍々しいほど赫い。シキは唇をぎゅっと結び目を引き攣らせる。自分の心臓をすりつぶしている心地がした。
できあがった薬を三包に分け、薬包紙でくるむ。一包を口中に含み水で流し込んだ。
たちまち喉が灼けるように熱くなり、シキは意識を失った。
(第14章「月の民」了)
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