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『月獅』第3幕「迷宮」          第12章「忘れられた王子」<全文>

第1幕「ルチル」は、こちらから、どうぞ。
第2幕「隠された島」は、こちらから、どうぞ。
前章(第12章)「禍の鎖」は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
天卵を宿したルチルは王宮から狙われ「白の森」に助けを求めるが、白の森の王(白銀の大鹿)は「隠された島」をめざすよう薦める。そこでノアとディア親子に出会う。天卵は双子でシエルとソラと名付ける。シエルの左手から孵ったグリフィン飛べず成長もしない。王宮の捜索隊が来島し、ルチルたちは島からの脱出を図るが、ソラがコンドルにさらわれ「嘆きの山」が噴火した。
レルム・ハン国の王宮では不穏な権力闘争が渦巻いている。王国の禍は2年前に王太子アランが、その半年後に3男ラムザが相次いで急逝したことに始まる。王太子の空位が2年続き、妾腹の第2王子カイルを擁立する派と、王妃の末息子第4王子のキリト派と王宮を二分する権力闘争が水面下で進行していた。それを北のコーダ・ハン国と南のセラーノ・ソル国が狙っている。

<レルム・ハン国 王家人物>
ウル‥‥‥‥国王
ラサ‥‥‥‥王妃・トルティタン国の第1皇女だった
サユラ‥‥‥貴嬪
アカナ‥‥‥淑嬪
アラン‥‥‥第1王子・逝去(享年18歳・王妃の長男)
カイル‥‥‥第2王子(15歳・貴嬪サユラの長男)
ラムザ‥‥‥第3王子・逝去(享年14歳・王妃の次男)
キリト‥‥‥第4王子(10歳・王妃の三男)
オリ‥‥‥‥一の姫(12歳・淑嬪アカナの長女)
カヤ‥‥‥‥二の姫(11歳・貴嬪サユラの長女)
マナ‥‥‥‥三の姫(10歳・淑嬪アカナの次女)
カムラ王‥‥レルム・ハン国の前王
王太后‥‥‥カムラ王の妃・ウル王の母

<その他登場人物>
ラザール‥‥星夜見寮のトップ星司長
エスミ‥‥‥貴嬪サユラの侍女頭
ナユタ‥‥‥カイルの近侍頭・エスミの弟
ギンズバーグ侯爵‥サユラの父

<補足>
コーダ・ハン国‥‥ノリエンダ山脈の北にある武力国家
セラーノ・ソル国‥南方の海洋国家
翡翠宮‥‥‥サユラ母子の宮
玻璃宮‥‥‥アカナ母子の宮
真珠宮‥‥‥王妃の宮
金剛宮‥‥‥王太后の宮
ジェム‥‥‥将棋のような棋盤ゲーム・ウル王のお気に入り


「忘れられた王子」(1)

 後宮の池にはりだした四阿あずまやにはすでに王太后が腰かけていた。池面を初秋のぬるい風がわたる。
 カイル王子のご誕生に、サユラ妃の父であるギンズバーグ侯爵は狂喜し「よくやった」と娘を手放しでねぎらった。宿下がりから後宮にもどるとすぐにサユラ妃は王太后に呼ばれた。
 四阿に続く柱廊を渡る。池の畔の柳が風に裳裾を揺らす。正装の胸もとに汗がにじんだ。乳母に抱かれたカイルの泣き声が届くと、たっぷりとしたドレスの裾をひるがえして王太后が立ちあがった。
「元気なお子じゃ。よくぞ無事にお産みになられた。礼を申します。乳が欲しいのやもしれぬ。ここは風も淀んでおる。邪気にあたってはならぬゆえ、カイル殿はさがられよ。皆もさがりや。妾はサユラ殿と少し話がある」
 王太后は人払いをし、サユラに席をすすめた。警護の衛兵のみ回廊の端に控える。
 鯉が朱と白の肢体をくねらせ跳ねた。浮草がゆれ水紋が広がる。
 カイルが泣くとサユラの乳首からじんわりと白い液体がにじむ。わが子に与えることのかなわぬ乳。胸に巻いたさらししか吸ってはくれぬ。初乳は赤子に必要だからと、生まれてすぐに一度だけ吸わせた。小さな口がぎゅっと吸いつき、まだ歯も生えておらぬのに、乳首をかりっと噛んだ。思わず「痛っ」と小さく叫び、声を挙げたはしたなさを羞じいり慌てて口をつぐんだ。思いのほかの力強さに、愛おしさが胸の奥からこみあげ涙がひと筋こぼれた。だが、乳を吸わせたのはその一度きり。吾子あこはわが手から取りあげられた。
「喉が渇いておるであろうが、我慢してたもれ。毒見のものもさがらせたでな」
 はっと、サユラは顔をあげる。
「そなたに害をなすつもりは妾にはない。なれど、どこに悪意がひそんでいるやもしれぬ。王宮とは魔宮よ。危険は避けるにこしたことはなかろう」
 王太后はゆるりと笑む。
「吾子とは愛しいものであろう」
 ぬるい風が頬をなでる。
「ひと度手にしたものを失いたくはのうなる。ましてやそれが吾子となれば」
 サユラは激しくうなずく。
「カイル殿を無事に育てられよ。そのためには、玉座からもっとも遠ざけられよ」
 また鯉が跳ねた。サユラは膝に置いた扇を握りしめる。
「トルティタンとの同盟を反故ほごにはできぬ」
 王太后は池の向こうに目をやる。
「そなたとアカナ殿にはむごいことをしたと思うておる。なあ、王族とは虚しいものであるな。そうまでして護らねばならぬ国とはなんであろうな」
冷たい汗が胸もとを滑り降りた。

「忘れられた王子」(2)

 サユラは侯爵家の娘として自らの役割を幼いころから諭されて育った。後宮に入内し妃嬪となり王子を授かることは、敷かれたレールの輝かしいゴールのはずだった。ゆりかごですやすやと寝息を立てるカイルに目をやる。王太后様の言葉が耳の奥でこだまする。
 嬰児あかごの頬をそっと指先でなぞる。
「お抱きになられますか」
 背後からの声にさっと手を引っ込める。侍女頭のエスミが立っていた。
「私どもの目のあるところでなら、お抱きになられてよろしいのですよ」
 エスミがカイルをゆりかごから抱きあげ、サユラにさしだす。サユラは叱られた子のような目でエスミを見あげた。カイルを産んでからサユラはいっそう臆病になった。
「王家がおそれているのは、サユラ様がカイル様をさらって後宮から出奔され、ご実家の侯爵家に身を寄せられることでございます」
 エスミは侯爵家から付いてきてくれた侍女のひとりで、気の弱いサユラは姉のごとく頼りにしている。
「先日の王太后様のお話は、カイル様に玉座を望まぬようにとの仰せだったのではございませんか」
 サユラは驚いて切れ長の目を大きくし、口を開けて空気を呑み込む。
「姫様」とエスミがことさらに昔の呼び方でサユラを見つめる。
「ものは考えようでございます。玉座から遠ざけてよいと王太后様からお墨付きを賜ったのです。我らはカイル様の無事な成長だけを願い、目立たぬようつつましやかに暮らせばよいのです」
 ああ、とサユラの頬に紅がさす。
「なれど、いかがいたせば」
サユラは幼いころからの癖でエスミに答えを求める。
「そうでございますね」とエスミは赤子をサユラの腕に抱かせる。
「気をつけねばならぬことは、おふたつかと」
「ふたつ?」
「お辛いでしょうが、第一はご実家とのつながりを絶たれることです」
「侯爵家や父上とは、今後いっさい関わりを持ってはならぬということか?」
 サユラが不安げに瞳を揺らす。
「いっさいとは申しませんが」と断ってからエスミは続ける。
「姫様は、お父上である侯爵様に異をとなえたり、意見なさることはできますか」
 サユラは激しく首をふる。
「お立場上はサユラ様のほうが侯爵様よりも上なのですよ」
「そうかもしれぬが、父上に逆らうなど……」
 サユラはぶるっと身を震わせ、吾子あこを抱きしめる。
「サユラ様のご気性では難しいでしょう」
 エスミは他の侍女たちに目配せして下がらせる。
「侯爵様はなにゆえ姫様を入内させたのでしょう」
「それは……」と答えかけて、はっとする。
「そうです。サユラ様がお産みになられる御子を玉座につかせ、外戚として権力をほしいままにしたいからです」
 サユラは下唇を噛み、腕のなかのカイルに目をやる。視線を察したわけではあるまいが、小さな瞼が開く。泣くかとたじろぎ、見よう見まねではあったがそっと揺らしてやるとかすかに笑んだ。
「父上にとっては、わらわも、カイルも、ジェムの駒でしかないということか」
 エスミはそれには無言で応じる。サユラは気が弱く自らの意見はめったに口にしないが、思慮深いことは知っている。
「いまひとつは、カイル様を武芸から遠ざけ、できるだけ目立たぬようにお育てになることです」
「ああ、それなら」とサユラは表情を明るくしたが、エスミは目を伏せる。
「姫様のご気性を継いでいらっしゃれば問題はありません。ですが、先代王のご気性をお持ちであれば、それを押さえることは……」
 文武両道に秀でることは名君に求められることであるというのに。それを吾子には封印させねばならないのか。「堪忍してたもれ」とサユラはつぶやく。熱い滴がひとつ、子の頬に落ちた。

「忘れられた王子」(3)

 カイルは聡い子であった。聞きわけのよすぎることが不憫に思えるほどに。
「あぶないので、宮から出てはなりませんよ」「多くを望んではなりません」「剣も弓も、手にとってはなりません」「アラン殿やラムザ殿とはちがうのです」
 たくさんの禁止の言葉でカイルを縛った。むごいとは思うたけれど、なにかを禁じるときには必ず「お母様といっしょに居たければ」と添えた。幼子にとって母と離されることは恐怖に近い。それがカイルを守るためであるとわかっていても、子を恐怖で縛ることにサユラの胸は軋んだ。カイルの伸びるはずの芽をひとつずつ手折たおっているのだと、その度に胸に抜けない棘が刺さった。
 後宮には六つの宮がある。王太后の宮を金剛宮、王妃は真珠宮を、貴嬪きひんのサユラは翡翠宮を賜っていた。淑嬪しゅくひんのアカナは玻璃宮である。黒曜宮と柘榴ざくろ宮は使われていない。
 それぞれの宮は土塀で囲まれ、後宮の正殿である星雅殿せいがでんと柱廊で結ばれている。
 翡翠宮には噴水のある池と果樹のなる庭があり、このせいぜい百メートル四方の空間がカイルの世界のすべてだった。庭園をおとなう鳥や虫、小動物とたわむれ、朝露をまとった蜘蛛の巣を観察していることもあった。同じ年頃の遊び相手のいないことを不憫に思い、子猫と鷲の雛をエスミがどこからか貰いうけてきた。猫をシュリ、鷲の雛をハヤテと名付け、彼らはカイルの唯一の友となった。常ならば王子には家臣のなかから歳の近い子息が童子どうじに選ばれ、遊びと勉学の相手を務める。成長すると彼らがもっとも忠実な側近となる。アラン皇太子の葬儀の折に自決した三名の若者も童子より仕える側近であった。どの王子の童子となるかによって、一族の将来の栄華と不遇が決まる。権力争いは、幼いころより始まっているといえよう。
 一度だけウル王が「カイルの童子に候補がおるそうだ」とついでのように仰せのことがあった。「もったいのうございます。ですが、カイルは病で床に臥せることも多いので、まだ早いかと」とサユラが申しあげると、それっきり興を失くしたのか再び話にのぼることはなかった。ラサ王妃の産んだ王子にしか王の興味がないことは幸いでもあったが、父王からも忘れられる吾子あこが哀しくもあった。
 童子だけでなく、師傅しふもつけなかった。
 歩きはじめてまもなく、カイルは文字に興味をもった。「カイル様は、もう、字が読めるようです」侍女のひとりが目を輝かせて報告してきた。まだ二歳にもなっていなかった。翌日には、翡翠宮はその噂で明るくなった。妃嬪どうしの関係とは別に、それぞれの宮の侍女たちの間で小競り合いが絶えない。皇太子を擁する真珠宮の侍女たちから、あからさまに見下げられることも多かったものだから、カイルがたった一文字か二文字読めただけで「カイル様のほうが、アラン様よりも優れている」とまるでわが事のように自慢する声が聞こえてきた。
 眉をしかめたのはエスミだ。下女たちは共通の井戸に水を汲みにいく。一刻も早く彼女たちの口をふさがなければ。殿上の侍女だけでなく下女まで一人残さずサユラ妃の前に集めた。
「皆がカイルのことを慈しんでくれること、ありがたく思っております。カイルが文字を読めたことをわが事のように喜んでくれることも。それゆえ、妾からお願いがあります。カイルが微妙な立場の王子であることはわかってくれるであろう。どうかカイルの無事を願ってくれるのであれば、真珠宮を刺激せぬよう、お願いできないであろうか。悔しいことも多かろう。なれど、カイルの成長の喜びは翡翠宮のうちだけに留めおいてもらえぬか。妾はカイルに玉座を望んではおりませぬ。母として、ただ無事に育つことを願っておるだけ。皆が子に願うのと同じ。妾のささやかな願いのために苦労をかけますが、どうかこのとおりお願いいたしまする」
 サユラは椅子から立ちあがり、正座をすると床につかんばかりに頭をさげた。
 貴嬪の土下座に侍女や下女はどよめき驚愕する。貴人に触れることは許されていない。「もったいのうございます」とわななく嗚咽が宮をゆるがした。
 この日を境に翡翠宮は心をひとつにした。おそらく真心からの所作であったのだろうが、言葉数は少なくとも人の心を深くつかむサユラの器量に、エスミは母になって強くなられたと感じ入った。
 この騒動もありカイルの才が外に漏れることを恐れ、師傅をつけなかった。ただし書物は望むだけ与えた。

「忘れられた王子」(4)

 四年後に産んだ子が姫とわかると、産褥の床でサユラは安堵の涙をこぼした。
 カイルに対する裏返しだったのかもしれない。いずれ他国へ嫁ぐのだからと、多少のことには目をつぶって甘やかしたからであろうか、妹姫のカヤは自由奔放に育った。木に登っては落ちる、池の亀に指を噛まれる、雨の庭に走り出て泥まみれになる。カイルよりもカヤのほうがおのこのようであるな、とサユラは笑った。
 カイルはそんな妹姫をかわいがった。カヤもまた兄宮を慕った。
 カイルは母の言いつけを守り宮の外に出ることはなかったが、カヤは頻繁に脱走をはかった。行く先はたいてい玻璃宮だった。
 翡翠宮と玻璃宮は、観月台をはさんで井桁のように隣り合っていた。サユラとアカナは名門貴族家からの入内と出自しゅつじが似通っている気安さから、互いを茶に招くことがあった。むろん真珠宮のご不興を買わぬ程度にではあったが。アカナの御子は姫宮ふたりだったため、あるとき「カヤ姫様もごいっしょに」と誘いを受けた。アカナ妃の一の姫オリは、カヤよりも一つ年嵩の五歳、妹のマナ姫は一つ下の三歳であった。カヤは一度に姉と妹ができたごとく、たいそう喜んだ。翌日から「次はいつ玻璃宮に行くのだ」とせがむ。「そのうちに」とか「またお誘いがあれば」とかわしていたが、カヤの行動力をサユラもエスミもみくびっていた。
「も、も、申し訳ございません」
 カヤの乳母が血相を変え、姫様の姿が見当たりませんと訴えた。午睡からお起こし申しあげようと寝台をうかがうともぬけの殻であったと。
「どこぞでかくれんぼでもしておるのであろう、いつものことじゃ」
 と取り合わなかったが、傍らにいたカイルが
「母上、カヤは玻璃宮にまいったのではありませんか」という。
 まさか、とサユラは思った。宮と宮を結ぶ回廊の出入り口には宦官かんがんの門衛もいる。姫が出ようとすれば止めるであろうが、念のために遣いを走らせた。オリ姫の寝台でふたりが手をつないで寝息を立てていて、玻璃宮でもひと騒動になっていた。
「母上、こちらへ」とカイルが庭の隅にいざなう。
 土塀の下から不意に何かが飛び出した。カイルの飼い猫のシュリだ。古くなった土塀が崩れ、猫の往来に十分な穴が開いていた。よく見ると穴の下の土が抉るように掘られている。傍らには土のこびりついた陶器の欠片が転がっていた。
「もしや、カヤはここから」
 振り返るとカイルがうなずく。その足もとでシュリも肯定するように尻尾をばたつかせる。無理やり通ったのであろう。穴の口に引きちぎれた薄紅の絹の切れ端が落ちていた。
「オリ姫の寝台に泥まみれで忍び込んだか。さぞかし驚かれたであろうな」
 常に背を正して座しているオリ姫の困惑する様を思い浮かべ、サユラは嘆息した。
「穴はすぐに塞がせます」侍女がいうとカイルが、
「ここを塞いでも、カヤはまた別の抜け穴を見つけるでしょう。木登りも得意になりました。木に登って塀を超えようとするやもしれません」
「そうであろうな」サユラは塀の上の空を見あげる。
「週に一度、玻璃宮にお連れ申し上げるようにいたしましょう」
 エスミが提案するも、カイルは即座に異を唱えた。
「それではカヤを満足させられません。また脱走いたします」
 皆の目がいっせいに八歳のカイルに集まる。
「カヤはお姫様の物語よりも冒険譚を好みます。万難を排してたどりつく冒険がしたいのです」
「なんとまあ、困ったことよのう」
 甘やかしすぎたか、とサユラは眉をしかめる。
「母上、吾にお任せいただけませんか」
「なんといたす」
「トビモグラに力を貸してもらいます」
 トビモグラにトンネルを掘らせ、地下道をつたって通わせたらいかがか、という。トビモグラたちのねぐらとは別に掘らせれば、カヤが迷子になることも、別の場所へ遠征することもできない。専用の地下通路であるから、人目にふれることもなくカヤが攫われる心配もない。これならばカヤの冒険心も満たせると思うのです、と。
 これが八歳の子の知恵であろうか。滔々と理を分けて説く子を見つめ、ただの貴族の家に生まれておれば官吏として知略を存分に活かす道もあったであろうに、とサユラは瞼をおさえる。
「この計画に母上もエスミも」と周囲を見渡す。「皆も、気づいていないふりをしていただきたいのです。あくまで、吾とカヤが秘密で立てた策と素知らぬふりをしてください。玻璃宮にもそのようにふるまっていただくようお願いしていただけませんか」
「相わかった。アカナ殿には妾から頼もう。皆もどうか吾子たちの遊びに付き合ってたもれ」

「忘れられた王子」(5)

 兄は妹の自由闊達な心を守り、妹は兄のままならぬ自由を補おうとした。
 成長するにつれカヤは宮から出られぬカイルの代わりに、兄の目になろうと決心したふしがある。後宮から出ることはかなわぬが、後宮内を女童めのわらわの恰好をして歩き回り、噂話や見聞きしたことをカイルに語って聞かせた。いっぽう鷲のハヤテは、外廷はむろん王都リンピアのようすや、時には海上まで遠征し鳥瞰でとらえたさまざまを伝えた。カイルは翡翠宮の奥に居ながらにして、後宮の隅々やゴーダ・ハン国の灌漑工事のことも、セラーノ・ソル国の王がセリダという小柄な女王であることも知っていた。
 カヤが女童に身をやつしてうろついていると注進が入ると、さすがにエスミは「姫様にはきつくお灸を据えねばなりません」と眉をつりあげた。とりなしたのはサユラだった。
「舞や竪琴の稽古などはさぼっておらぬのであろう」
「ええ、それはまあ。姫様は器用というか、なにごとも飲み込みが早く、すぐにおできになられます。ただし人並みにでございます。それ以上、上達しようとはなさりません」
 エスミには忸怩じくじたる思いがある。
「姫のたしなみとしては、それで十分ではないかえ」
「そうではございますが。それと、女童の姿で徘徊されるのとは別にございます」
「のうエスミ、カヤは兄想いであると思わぬか」
 サユラは椅子から立ちあがり、鎧戸をあけて窓から庭園を眺める。
 池に張りだした四阿あずまやでカイルが画を描いている。カヤは隣に座してしきりに兄になにかを語っている。
「姫様の戯れは、カイル様のためと」
 サユラは春風のように微笑む。 
「妾は何も見ようとせず、知ろうともせず、覚悟もなく入内した。カヤは、王妃様のようにいずれは国を背負うて他国に嫁がねばならぬ。敵国に人質として嫁ぐこともあろう。ひとりで考えて、ひとりで対処せねばならぬようになる。危険に曝されることも多かろう。遠からず、ひとりで運命を切り拓いていかねばならなくなる。女童に身をやつして見聞を広げることは、あの子を助けることもあるやもしれぬ」
 池をわたる風にでも説くようにサユラは語る。
「妾が愚かであったがために、吾子あこたちには過酷な運命を強いることとなってしもうた」
 エスミもまた、サユラ妃とお子様たちの苦悩を思って嘆息した。王族とはなんと忍従を強いられる運命であるかと。
 
 十五歳を迎え成人の儀である冠賀礼かんがれいを済ませると、王子は後宮に住まうことは許されない。外廷に独立して宮を持つことになる。カイルは藍宮らんきゅうを賜った。
 立宮に際し、近侍としてギンズバーグ侯爵家からも三名の推挙があったが、父上や兄上の息のかかっている若者を受け入れるわけにはいかない。丁重に断ると「童子はおろか、近侍までしりぞけるとは。後ろ盾もなしに立宮させるのか」と激怒したと聞く。エスミの弟のナユタを近侍頭とし、他に三名、カイルが生涯無冠のまま権力とは一線を画することを心得たものをつけた。
 カイルは立宮前に臣籍降下を父王に願いでたが、沙汰が下りる前に王太子のアランが事故で急逝した。ひと月後に控えていたカイルの冠賀礼は王太子の服喪中であるため中止となり、藍宮への引っ越しだけがひそりと行われ、臣籍降下の請願もうやむやになった。冠賀礼が取りやめになったことを翡翠宮のものたちはたいそう口惜しがったが、「目立たなくてよかったではないか」とサユラもカイルも笑って取り合わなかった。
 
 サユラとエスミは、一本ずつあらぬ懸念の棘を抜くようにして慎重にカイルを玉座から遠ざけ守ってきた。
 それがあろうことか、今、王宮を二分する権力闘争に巻き込まれようとしている。
 王妃が三人目のキリト王子を無事にご出産なされたとき、サユラは心底、胸を撫でおろした。たとえアラン殿が儚くなられようとも、カイルを王太子にともくろむ勢力はこれでもう生まれないであろうと。まさかラムザ殿まで相次いで身罷みまかられるとは思いもしなかった。
 いくらカイルには玉座を欲する気持ちはないとサユラが訴えても、外戚であるギンズバーグ侯爵は取り合ってはくれぬ。カイルが後宮を出て二年、もはや守ってやる手は届かぬ。これまでの歳月はなんであったのだろうか。争いに巻き込まれることは避けようがないのか。このような将来になるとわかっておれば、護身術だけではなく、剣や弓も兵法学も望むだけさせてやれば良かった。
 王太后様も五年前に薨去こうきょされた。
「のう、エスミ。何ゆえ、王妃様はキリト様の立太子を据え置かれているのであろう。大きな渦を止めることは、もはや叶わぬのかのう。『天はあけの海に漂う』との星夜見があったそうじゃ。天卵の禍いであろうか」
 庭園にたわわに実る香橙こうだいの梢から、レイブンカラスが一羽音もなく飛び立った。

第3幕「迷宮」 第12章「忘れられた王子」
<完>

第13章「藍宮」に続く。

 


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