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ふたたび宮本武蔵から学ぶ

四六判の「小林秀雄全作品」第17集でも61ページにわたる『私の人生観』において、最後のおよそ1割は再び剣豪の宮本武蔵を話題にしてフィナーレを迎える。「観の目」「見の目」も含めて、『私の人生観』は宮本武蔵について述べている作品だという印象を持つ読者は多いようだ。

哲学者や思想家における文体侮蔑の話から、「別段、どんな風にうまくまとまりを付けようという考えもないから、前に触れた宮本武蔵の事について言いたい事で言い残した事があるので、少々補っておわりにします」(p189)と話題を転換した小林秀雄は、まずは菊池寛と直木三十五が宮本武蔵について論争したということを回顧する。さらに、吉川英治の新聞小説で宮本武蔵が一躍人気者になったが、事実は小説には不向きな人物だったと評して、簡単に生涯を紹介し、かの巌流島の決闘についても、史実は違うと指摘する。

私が、武蔵という人を、偉いと思うのは、通念化した教養の助けを借りず、彼が自分の青年期の経験から、直接に、ある極めて普遍的な思想を、独特の工夫によって得るに至ったという事です。
『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p191

宮本武蔵は1582年に生を受け、はじめて勝負したのが13歳のときで、以降命がけの勝負をしたのが60数回あり、すべて勝ったものの、それは20代までのことであるという。

当時は戦国時代から江戸時代への変革期。関ヶ原の合戦で徳川方が勝利したものの、再び豊臣方と戦火を交える緊張感が漂う。大名側は次にそなえて腕っ節の強い者を召し抱えたい一方で、武芸者は仕官を期待して、武芸者どうしの真剣勝負が行われていた。つまり実地経験こそ重視されていたが、そこから武芸の思想まで高めた者はいなかった。

そのようなときに、宮本武蔵は自分の経験と自信を武道の思想として著わしたのが『五輪書』である。ただし、宮本武蔵の自筆原本が残っていないため、『私の人生観』の講演があった1948年当時はまだまだ史実の研究が深まっていなかった。それでも小林秀雄は「作者が言いたかった事を、十分に云い得た書であるかどうか疑問だが、言わばその思想の動機そのものは、まことに的確な表現を得ている。そういう文章になっている様に思われる。それでよい」(p192)と語り、『五輪書』を紐解きながら、思索を深めていく。

(つづく)

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