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ダニエル・シュミット『ヘカテ』【映画評】

ダニエル・シュミット監督の映画『ヘカテ』を観る。

サハラ砂漠から始まったモロッコへの興味は、ポール・ボウルズ『シェルタリング・スカイ』をとおして、地中海と大西洋がまじわるジブラルタル海峡に面した港町タンジェ(タンジール)に移りつつある。

先日読んだ四方田犬彦『モロッコ流謫るたく』において、「タンジェを、白人たちが安心してメロドラマを演じることができる、異国情緒たっぷりの背景としてではなく、孤独と頽廃に満ち、しかも甘やかな夢幻の感覚に満ちた魔都として描いていた」(p23)映画として紹介されていたのが、この『ヘカテ』だ。

画像はいずれも公式X(Twitter)より

1942年、スイスの首都ベルン。華やかなパーティーで物語は幕を上げる。ナチス・ドイツの占領下にあるフランスの外交官ロシェルは酒宴で、かつて赴任した北アフリカの地で愛し合った一人の女を思い出す。

フランス、スペイン、イギリスが共同統治する1936年のタンジェに、若いフランスの領事官としてロシェルが着任する。すぐに足を運んだパーティーで、翳のある美しい女クロチルドと出会う。

毎晩のようにクロチルドのもとに通い、情欲に溺れるロシェル。しかし彼女は、実はシベリアに赴任している夫がいる人妻だと知り、嫉妬する。だがクロチルドはつれない態度で彼を翻弄する。ロシェルは彼女に執着するあまり、仕事や生活を破綻させていく。

ヘカテーは、もともとギリシア神話の女神。だがクロチルドは、フランスの小説や映画に典型的なファム・ファタール(femme fatale)で、男を破滅に追い込む魔性の女といえる。演じるローレン・ハットンは当時30代後半。蒼い月の光を浴びたような2階の欄干で情交を結ぶシーンはそのままタブローとなるほど美しい。

情欲の尽きないロシェルに対し、クロチルドの欲望は何だったのか。男を弄ぶのが彼女の本性とは思えない。無心に、無私に男を惑わせるからこそファム・ファタールなのかもしれない。もし自分が出会ったら……やはり溺れるだろう。

ヨーロッパの論理で支配しようとするも、イスラムの信仰や土俗的な生活様式、さらにヘテロセクシュアルだけでなくホモセクシュアルな雰囲気も満ちているタンジェの町が魅力的。自分は何者なのか、いや、自分は何者でもないと自覚し、タンジェに惹かれ、永住することを決意したポール・ボウルズの心情に思いを馳せる。他方、タンジェで暮らすことに不器用で、自身をも崩壊させてしまった妻のジェイン・ボウルズにも心惹かれる。

モロッコで迷宮都市といえばフェズだが、しばらくはここタンジェを彷徨い揺蕩たゆたうとしよう。


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