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「人」が「生」きるうえでの「観」方

ちょうど5か月かけて読み、およそ100回にわたって論じてきた小林秀雄の『私の人生観』。あらためて全体を読み返してみて気づいたことが三点ある。

一つめは、批評の対象よりも、その作品なり思想なりをつくった人そのものに対する小林秀雄の興味であり、想いの強さゆえ、『私の人生観』で書かれたものは、小林秀雄の自画像であるということだ。

二つめは、精読した後に全体を読み返したことで、たとえば後半で述べられていた事柄や補足した知識が、すでに読み進めた前半部分の理解に結びついたというものである。

それに対し、三つめは、これだけ精読してきたにもかかわらず、実はまだまだ読めていなかったということである。

春、なぜ桜が散るのを見て、われわれの心はざわめくのか。

『私の人生観』において小林秀雄は、仏教によって養われた、自然や人生に対する観照的態度、審美的態度が、我々の心に深く浸透しているからだと指摘する。西行が桜に「くう」を観たように。我々は伝統から離れて生きることは決して出来ず、また伝統のないところに文化は存在しない。

そのとき、小林秀雄は仏教とキリスト教を対比させて語る。

仏教の心観というものの性質には、キリスト教の祈りに比べると余程審美的なものがあった様に思われます。やはり、美しい自然の中に生まれた宗教と、沙漠に生まれた宗教との相違からくるのでありましょう。苦行を否定した釈迦は、牛乳を飲み、美しい林の中で修行したが、飢えたキリストは、無花果いじじくの樹に、今より後、果を結ばざれ、と言っている。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p155

小林秀雄は『私の人生観』の「観」から仏教思想の「観」を思い浮かべて論じてきた。仏教や禅などについて詳しく述べていて、こちらも知識と理解の不足分を補いつつ一緒に読み進めてきた。しかし、このキリスト教に関しては、あくまでも釈迦のことを強調するために対比させて言及したと分かっていても、分かったつもりにならず、先を急ぐことなく、小林秀雄がおそらく脳裏に思い浮かべただろう沙漠や飢えたキリストを自ら「思い出せる」まで読んだかといえば、自信がない。

また、バルザック、リルケ、ロダン、デカルト、カント、プラトンなど、ヨーロッパの思想家や芸術家、文学者などは、『私の人生観』で触れられた文面そのものはもちろん理解してきたが、なぜ小林秀雄は彼らについて言及したのか、他の作品ではどのように評価し、論じているのか、まだまだ深められるはずだと、あらためて考えた。

さらには、小林秀雄のいう「直観」とは何か。まだ言葉にまとめられるほどではない。

読書は不完全なものだ。たとえ「本を読んだ」と言っても、読了したという経験を述べていることもあるし、そこに含まれている知識をすべて記憶できるわけでもない。後に残るのは、ただ「おもしろかった」という感想だけかもしれない。読書に何を求めるにせよ、「完全」なものはありえない。だから再読が必要だったり、新たな発見があったり、理解が深まったりするのだ。

その一方で、小林秀雄ははこんなことも言っている。『私の人生観』から25年、1973(昭和48)年の『読書の楽しみ』である。

本は、若い頃から好きで、夢中になって読んだ本もずい分多いが、今日となっては、本ももう私を夢中にさせるわけにはいかなくなった。(中略)往年のはげしい知識欲や好奇心を想い描いてみると、それは、自分と書物との間に介在した余計なもののように感じられる。それが取除かれ、書物とのかな、尋常で、自由な附合の道が開けたような気がしている。書物という伴侶はんりょ、これが、以前はよく解らなかった。私は、依然として、書物を自分流にしか読まないが、その自分流に読むという事が、相手の意外な返答を期待して、書物に話しかける、という気味合きみあいのものになったのである。

『読書の楽しみ』「小林秀雄全作品」第26集p160

読書は、知識欲や好奇心を満たしたいのであれば、十分に応えてくれるだろう。しかし、それこそベルクソンが芸術家の知覚について論じているように、読書も必要性から離れたときに初めて得られるものもあるのではないだろうか。芸術家が、自分の知覚を利用しようと思うことが少なければ少ないほど、より多くの事柄を知覚するのだというように、読むという営みは、求めずに話しかけると、意外な答えが返ってくることがある。書物は伴侶である。いいたとえだ。

『私の人生観』は、タイトルからすれば、小林秀雄は人生というものを、どのようにとらえているかを語り、人生はこのように生きるべきだと訓示をたれる文章かと思ってしまう。ただ、実際には本稿で指摘したとおり、このタイトルは講演を主催した新聞社が用意したものである。ありがたい説教をするために小林秀雄が選んだテーマではない。

それでも、あえて解釈するなら、「人」というものが「生」きるうえで、このような「観」方みかたもあるのだと、考えるためのヒントを示してくれている。それも「直観」といえるのではないか。「人生」イコール「人の一生」という解釈だと、ちょっと違和感がある。

「小林秀雄は人生というものを、どのように考えているかを知りたい」という読者の期待をさらっといなし、実際の必要性から離れたところで、意外な答えが返ってくる。それを、小林秀雄は、どのような心持ちで、これらを述べていたのかと、さらに考え、「思い出す」ように読む。正解ははない。

『私の人生観』は、それこそ伴侶として、人生をかけて付き合っていく作品であり、さらなる熟読に値する文章だと思う。この5か月間、「小林秀雄全作品」第17集にブックカバーをかけ、どこに出かけるにせよ肌身離さず持ち歩き、ほんの一段落であっても『私の人生観』を毎日読んできた。これからも、まだ読み続けるだろう。

(既視の海「小林秀雄『私の人生観』にたゆたう」おわり)

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