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必要なのは、「器用」をきわめる名人であって、己を知らない指導者ではない。

宮本武蔵は、兵法を極める手法をもって諸芸をも極め、自分を鍛練することで、みずからの思想を持つに至った。それは、国をも治める指導者にもあてはまる。己に勝つ。それを小林秀雄は「人生観を持つ事に勝つ」という言い方をしている。

武蔵の言う名人を、そういう意味に解するなら、それは決して古くならぬいつの世にも必要な人間である。(中略)今日の文化にも必要なのはそういう名人であって、指導者ではない。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p195

この「名人」とは、器用を極める人間であり、兵法を極める方法論によって諸芸を極め、己をも極めた者である。小林秀雄は、単なる役割としての指導者ならば、不要だと言っている。「人生観を持つ事に勝つ」ことができた人を名人と呼び、指導者には必要な素養だと言っている。

人を指導しようとする魂胆は、人に指導されたいという根性を裏返しにしただけのものだ。両方で思想という同じボールを投げ合って遊ぶのである。自ら欲し、働くという事を忘れ果てたかような人間関係は、人と人とのというより、むしろ物と物との関係である。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p196

ここで思い出すのは、後年の名作「考えるヒント」に収録されている『プラトンの「国家」』である。全編をソクラテスとプラトンの政治論に費やし、政治とは巨獣を飼いならす術でありながらも、その域には到底達しえないわが国の現状について嘆く。なぜソクラテスとプラトンを持ち出したのか。もちろん、その二人は物を考える出発点も終点も「なんじ自身を知る」ことにあると悟ったからだ。

政治は普通思われているように、思想の関係で成立つものではない。力の関係で成立つ。力が平等に分配されているなら、数の多い大衆が強力である事は知れ切った事だが、大衆は指導者がなければ決して動かない。だが一度、自分の気に入った指導者が見つかれば、いやでも彼を英雄になるまで育てあげるだろう。

『プラトンの「国家」』「小林秀雄全作品」第23集p52

『私の人生観』でも『プラトンの「国家」』においても、やはり連想するのが終戦直後の首相が語った「軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔ざんげしなければならぬ。一億総懺悔をすることがわが国再建の第一歩だ」という言葉だ。

「一億総懺悔」を求める政府、何よりも「指導者」は、まず自ら懺悔しているのか。その上で国民にも懺悔を求めているのか。そして、指導者の言うがままに懺悔し、さらに同じ国民どうしで“戦犯”探しをして、小林秀雄をもつるし上げた。それぞれが本当に、己を知っているというのか。そんな「指導する者」と「指導される者」はただ馴れ合っているだけだと、1948(昭和23)年当時の小林秀雄は痛切に感じたに違いない。

(つづく)

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