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手書きという覚悟。

歌手で女優の小泉今日子が毎週、本について語るポッドキャストがある。それに作家の江國香織が出演したときのこと。

小泉今日子はいつでもパソコンで執筆するが、歌詞は横書きするのに対し、書評やエッセイでは縦書きする。そうしないと落ち着かないという。。

一方、江國香織はよく知られているように、いまだに手書きで小説や随筆を書く。原稿は縦書きなのだけれど、詩は横書きでなければ書けないという。

パソコンで執筆するか、手書きかという選択は、いまだに耳にする。しかし、縦書きと横書きの使い分けは、それほど着目されてこなかったように思う。

そのポッドキャストはとても興味深く聴いて、いまだに強い印象と考えを残している。

パソコンによるタイピングと、手書きの差は大きい。思考の速さにできるだけ近づけることのできるタイピングに対して、思い浮かんだことを書きとめるのに秒単位のずれが生じるのが手書きだ。そんなタイピングに慣れてしまうと、手書きがじれったく、まどろっこしい。

ところが、そんな「ずれ」を逆手にとると、手書きもそれほど嫌ではない。いま書きとめている言葉に、どのように次の言葉を続けようか。書こうと頭で考えていたものとは別の言葉や表現が、書き出すまでの時間に、思い浮かぶこともある。どの言葉を選べば、自分の本当に言いたいこと、書きたいことに少しでも近づけられるか、言葉を吟味することができるのだ。

思いつくままに勢いよく入力してしまったタイピングの言葉は、あとから読み返すと、どこか軽い。

ゆっくりでも吟味した手書きの言葉は、どこか覚悟を感じる。

手書きについては、筆記具によって感じ方が異なるはず。書いて、消して、書き直せる鉛筆と、書かなかったことにはできない万年筆は、同じ手書きでも違ってくるものだ。いずれ、そんな考察もしたい。

そして縦書きと横書きの違いも、もう少し考えてみよう。書くとは、考えることだ。

まずはご遠慮なくコメントをお寄せください。「手紙」も、手書きでなくても大丈夫。あなたの声を聞かせてください。