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全集を手に入れる、全集を読む

幼い頃から読書が大好きだった。ただし乱読多読。小説、随筆、ミステリ、紀行文、ノンフィクション、教養新書、何でもござれ。おかげで中高の国語や現代文では苦労した覚えがない。

文学や小説を意識し始めたのは30代になってから。ビジネス書や自己啓発書ばかり読んでいた20代。小説なんて、その作者の知識や考え方から抜け出せず、視野が狭い、世界が広がらないと思い込んでいた。それがいまや、小説や純文学といわれるものにまで、どっぷりつかっている。そして「全集」にも惹かれている。

はじめての「全集」は、『倉橋由美子全作品』全8巻。

実は、倉橋由美子をまったく知らなかった。代表作2つが文庫で復刊され、文芸誌でも特集が組まれたのをきっかけに、そのうちの1つである『暗い旅』を何となく手に取ってみた。すると「あなた」と呼びかける二人称の文体に強烈な衝撃を受けた。かつて文体論争があったことも知り、ビュートルの『心変わり』まで手にとったほどだ。『聖少女』の淫靡な世界もじめじめした胸騒ぎを覚える。そこまでくると、他にも倉橋作品を読んでみたい。しかし大半は絶版である。

そこで考えた。全集ならば、たくさんの作品をまとめて読めるはず。早速、なるべく状態のよいものを古書店から取り寄せた。短篇を何作か読み、『暗い旅』を再読したあたりで、はたと気がつく。『全作品』といっても、倉橋由美子の作家生活の途中で発刊されたので、それ以降の作品は当然、未収録だ。とくに「桂子さんシリーズ」は第1作の『夢の浮橋』を最後の8巻に収録しているだけで、残りはいっさい読めない。

仕方ないので、『全作品』未収録の作品は、古書をこつこつと集めている。初めての「全集」が、全集ではなかったのは、ちょっと残念だった。それでも、発売当初は鮮やかな緋色だった『倉橋由美子全作品』の箱が、くすんでより深みが増した姿で書棚に並んでいる。それを見るだけでも、ちょっと嬉しい。

別の目的でみていたネットオークションで、思わず落札してしまったのが、『吉行淳之介全集』全15巻。元の持ち主も、似たような気質だったのか、手に取ったのは第1巻だけで、あとの14冊は一切手付かずだという。届いてみると、箱は焼けているものの、本体はまっさら。掘り出し物を手に入れて大満足だった。

しかし、吉行淳之介はせっせと文庫を買い集めて読んでいたので、全集が手に入っても、なかなか手に取ることはない。オールタイム・ベストの『夕暮まで』を除いて、大半の文庫は思い切って手放してしまった。村上春樹が個人的に好きだという短篇『水の畔り』すら、全集ならではの作品であっても、いまだ手付かずでいる。

さらに調子にのって手に入れたのは、『<新版>向田邦子全集』全13巻。向田邦子も文庫で大半を読んでいた。しかし、『倉橋由美子全作品』や『吉行淳之介全集』とちがって、『向田邦子全集』は新版ならばすべて、古書ではなく新品で手に入る。高価ではあったが、入手できた満足感で胸がいっぱいとなり、まさに飾って、読まずに悦に入っていた。

そんな『向田邦子全集』に転機が訪れた。

全集読破。それは批評の神様と呼ばれる小林秀雄が勧めていた読み方だ。

 或る作家の全集を読むのは非常にいい事だ。研究でもしようというのでなければ、そんな事は全く無駄事だと思われ勝ちだが、決してそうではない。読書の楽しみの源泉にはいつも「文は人なり」という言葉があるのだが、この言葉の深い意味を了解するのには、全集を読むのが、一番手っ取り早いしかも確実な方法なのである。
 一流の作家なら誰でもいい、好きな作家でよい。あんまり多作の人は厄介だから、手ごろなのを一人選べばよい。その人の全集を、日記や書簡の類に至るまで、隅から隅まで読んでみるのだ。
 そうすると、一流と言われる人物は、どんなに色々な事を試み、いろいろな事を考えていたか解る。(中略)これが、「文は人なり」という言葉の真意だ。それは、文は眼の前にあり、人は奥の方にいる、という意味だ。

小林秀雄『読書について』中央公論新社p11

好きな作家がいたら、書かれたものにすべて目を通しなさい。そうして「文は人なり」を体感せよ、というのだ。

ならばと一念発起し、およそ1年、飽かずに眺めていた『向田邦子全集』を通読することにした。全集読破は初めてなので、もしかしたら挫折するかもしれない。そこで、2つだけ約束事をつくった。

まず記録をとること。方眼罫の野帳を用意し、第1巻から読み始め、読了したら、その数字の入ったマス目を塗りつぶす。さらには、その巻に収録されている章立て、または短篇もすべて数えて、同じように番号をつけたマス目も塗りつぶす。

もう一つ、読書時間は1日30分に限定する。これをタイマーで計り、終了の合図とともに本を閉じる。ただし、短篇の途中であれば、それだけは読み通してもいい。実際には、あんまり面白くて30分どころか3時間も続けて読んでしまったこともあった。

そのようにして始めた向田邦子全集の通読は、まさに向田邦子の人生を旅することだった。

向田邦子の随筆はもともと、子どもの頃の家族の思い出や、若い頃の回想を綴ったものが多い。読み進めながら、自分も戦前の昭和で丸いちゃぶ台を囲み、空襲で焼けた家の前で茫然とし、戦後の復興を目指す東京の街を眺めた。小説も、それぞれの主人公は別の女性でも、すべてに向田邦子の人柄や息遣いが映し出されている気がして、ほんのり恋心も抱いた。

向田邦子は直木賞を受賞し、脚本家としてだけでなく、これから作家として大いに飛躍するはずだった51歳のときに、飛行機事故によって死を迎える。それを知りながら全集を読むと、随筆にせよ、小説にせよ、書いてある言葉はすべて、死に向っているのだと考えてしまう。旅に出たい。好きな作品を原作にして脚本を書きドラマ化したい。親孝行したい。随筆でそう書いてあっても、あと2年したら飛行機事故にあってしまう、その1年後は命を落としてしまう。そんなふうに、彼女に残された時間を数えながら読んでしまうことに胸を痛めた。

読めば読むほど押し寄せる切なさを抱きしめながら、約3か月かかって全13冊を読了した。学生時代をともにすごし、恋に悩み、上司に憤り、親の老いを感じる。向田邦子の問いかけに答え、こちらも疑問を投げ掛け、ともに悩んだことは、しばらくしてからの話で解決することもある。一緒に笑い、一緒に泣いた。全集を読み通すことで、向田邦子の人生を駆け抜けたのだ。

この経験は、なぜ自分は読書するのかという意味すら大きく変えた。その後、ある作品が何巻に収録されているか調べたり、心に残る言葉を引用したりするために手に取ることはあるが、向田邦子全集をふたたび通読するのは、少し先になりそうだ。そのくらい重く、そして宝物のような読書経験となった。

それからも全集は少しずつ増えている。別巻2冊を加えた全25巻の『幸田文全集』は、『日本の古本屋』の「気になる本」リストに登録して5年ほど悩んだ末に手に入れた。筑摩書房の社名が入った無機質な段ボール箱で届いたのは、予約購入した松岡和子個人全訳『シェイクスピア全集』全33巻。『富士日記』の初版本を入手したことで『武田百合子全作品』全7巻を買わないと決断したのは、いまだに心残りがある。全集読破のきっかけは『読書のすすめ』という単行本だったが、いまでは『小林秀雄全作品』全32巻も揃え、ほぼ毎日読んでいる。

なぜ全集なのか。

向田邦子全集を読んで感じたのは、全集を通読してこそ、その作家を全肯定することができる。「推し」といった軽薄な言葉はふさわしくない。小林秀雄の語るとおり、「文は人なり」を受けとめるために最適だ。

たしかに吉行淳之介全集も幸田文全集も、まだ通読していない。しかし書棚にならべ、毎日のように背表紙を眺め、収録されている作品名が一つでも二つでもそこに書いてあれば、その作家の生きた跡をたどることができる。実際に読めば、すでに亡くなっている作家であれ、その人生をともに歩くことができるのだ。

いつかは分からない。でも、いつかは読むだろう。全集を手に入れる、全集を読むことは、私淑の最大限の表れであり、とても幸せな営みである。

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