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芸術家のほかに知覚を拡大できるのは誰か

なぜ芸術家は知覚を拡大することができるのか。人は知覚を行動するために用いている。しかしその知覚を行動に結びつけず、自分のために物を見るのではなく、物のために物を見る人たちがいる。それが芸術家であるとベルクソンは説く。芸術家は、自分の知覚を利用しようと思うことが少なければ少ないほど、より多くの事柄を知覚するのだという。小林秀雄も「ひたすら見る為に見ようと努める画家が、何か驚くべきものを見るとしても不思議はあるまい」と述べる。

そのように拡大された知覚をベルクソンはvisionと呼ぶべきものと考え、さらに神学的に、選ばれた人には天にいる神が見えること、つまり見神けんしんという意味合いもvisionには含まれていると小林秀雄は説明する。そのうえで、このvisionこそが、これまで『私の人生観』でも触れてきた「心眼」や「観」という言葉に近いのではないかと考える。

物事の真実の姿をはっきり見抜くことができる心のはたらきを意味するのが「心眼しんがん」。

仏教思想において、考えることによって得られる智慧の力によって、肉眼では見られない物や一切の本質を見抜くはたらきを意味する「心眼しんげん」。

また、宮本武蔵の「見の目」「観の目」もここに通じるだろう。

ベルクソンは『思想と動くもの』において、この知覚の拡大を哲学にも求めている。

哲学の役割は、私達の注意にある転位をひき起こし、それによって実在のいっそう完全な知覚へと私たちを導くことにあるのではないでしょうか。それはおそらく、世界の実際的な関心の側面から注意を逸らせて、それを実際的には何の役にも立たないものの方へ向け直すことだと思われます。こうした注意の転換こそ、哲学そのものであると言えるでしょう。

原章二訳『思考と動き』(平凡社ライブラリー)

知覚の拡大という点において、芸術家と哲学者は同じ働きをしている。そして小林秀雄も、この両者が「美のシステムの完成」に協力していくものだと考える。

(つづく)

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既視の海
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