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なぜ芸術家は知覚を拡大することができるのか

曖昧で間違いやすい知覚を補うために、人は科学と哲学という二つの方法を採り入れた。ただ、科学は計量であり、知覚を量でとらえることはできるものの、質はとらえられない。そこで質を受け持つものとして哲学があるが、哲学者の人数分だけ考え方があり、対立する考え方も現れ、ますます異質になっていく。よって科学も哲学も、知覚を拡大することは難しく、何か新しいものを生み出すことはできないのではないか。

そんな問いに対し、優れた芸術家こそ、不可能を可能にするというのだという哲学者アンリ・ベルクソンの考えを小林秀雄は紹介する。芸術家の美的経験には重要な哲学的直覚があると考えるベルクソンについて、「こんな大胆な直截ちょくせつな考えはどんな美学にも、見付け出す事は出来まい」と小林秀雄は感心する。

では、なぜ芸術家は知覚を拡大することができるのか。小林秀雄は「私達が生きる為に、外物に対してどういう動作をとるかに順じて知覚は現れる」としたうえで、鹿を追う猟師を例に出してから、次のようにまとめる。

私達の命は、実在の真ッ唯中にあって生きている。全実在は疑いもなく私達の直接経験の世界に与えられている筈なのであるが、その様な豊富な直接経験の世界に堪える為には、格別な努力が必要なのであり、普通私達は、日常生活の要求に応じて、この経験を極度に制限しているのだ。見たくないものは見ないし、感じる必要のないものは感じやしない。つまり、可能的行為の図式が上手に出来上るという事が、知覚が明瞭化するという事である。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p180

残念ながら、ここの部分は何度繰り返し読んでみても、よく分からない。高校現代文で、ここの部分が出題され、どのようなことか説明せよと言われても、まず得点できない。仕方ないので、ベルクソンの『思想と動くもの』から解読しよう。参照するのは原章二訳『思考と動き』(平凡社ライブラリー)である。

ベルクソンは、我々が偉大な芸術作品、たとえば絵画について感嘆するのは、その絵が示す何かについて、すでに見たことがあるからだと指摘する。しかし、それを見ていたにも関わらず、それに気づいていなかった、消えていった光景だという。

我々のふだんの視覚は、物質的な囚われや生活と行動の欲求に狭められ空虚にされている。それに対し芸術家の視覚は、生活の実利的で物質的な側面に、それほど心を捉えられていない。芸術家は「放心している人」である。

知覚は行動の補佐として、実在のなかから自分に関係のあるものだけを切り離す。その事物から我々が引き出すことのできる利益を示している。だが、なかには幸運にも、感覚や意識がそれほど生活に密着していない人もいる。すると、その知覚を行動に結びつけず、自分のために物を見るのではなく、物のために物を見る。行動するために知覚するのではなく、知覚するために知覚する。意識や感覚が遊離しているのだ。だから芸術家は、自分の知覚を利用しようと思うことが少なければ少ないほど、より多くの事柄を知覚するのだとベルクソンは説く。

ここで思い出したのは、小林秀雄『美を求める心』にあるライターのエピソードだ。主旨は異なるものの、ベルクソンのいう知覚に通じるように思う。

小林秀雄はロンドンで、なんの特徴もないが、古風で美しい形をしたライターを見つけて買ってくる。書斎の机の上に置き、たくさんの来客がそれでタバコに火を点けるが、よく見て、これは美しいライターだと言ってくれた人は全くいない。黙って一分間も眺めた人はいないというのだ。

ライターはタバコに火を点けるもの。その目的のために、机の上にあれば手を伸ばし、着火したら、おしまい。ライターがあるという知覚を、点火するという行動のためだけに用いたのだ。ベルクソンのいうように、もし優れた芸術家の前にこのライターがあれば、点火するという行動を目的とせず、ライターの姿、たたずまい、重みなどを知覚するのだろう。それが我われ凡人と、優れた芸術家の違いであり、このことを、小林秀雄は「私達が生きる為に、外物に対してどういう動作をとるかに順じて知覚は現れる」と述べたのだ。

(つづく)

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