「言葉」をめぐり、小林秀雄から池田晶子、そしてウィトゲンシュタインへ
「禅」とは考える、思惟すること。「考える」とは、対象すなわち「存在」と身をもって交わること。そのときに生まれるのが「言葉」である。
小林秀雄『考えるヒント』には『言葉』という随想がある。
話すにせよ、書くにせよ、言葉を真似して伝えようとするのは易しいのに対して、その言葉で伝えようとする内容すなわち意味は、なかなか伝わらないものだと、ふつうなら言うだろう。しかし本居宣長は違う。言葉こそ第一であり、意味は第二だという。
難解だといわれる小林秀雄の文章や作品も、繰り返し読む、精読する、熟読すると、少しずつ意味も解きほぐれてきて、理解できるようになる。小林秀雄の言いたかったことは、こういうことだと言えるようになるものだ。しかし、『私の人生観』のように、講演調の〈です・ます体〉と加筆した〈である・だ体〉を取り混ぜて、リズムやメロディーを感じられるような文章を書くのは、本当に難しい。文体だけではない。どの言葉を用いるのか、その取捨選択や吟味も、なかなか真似ができるものではない。まさに「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」だ。
意味は真似しやすい。なぜか。意味に姿はないからである。これを分かりやすく説いているのが、小林秀雄の『考えるヒント』を本歌取りした『新・考えるヒント』を著わした哲学者・池田晶子だ。もちろん『言葉』という随想がある。
意味が存在してから言葉が生まれるのではなく、言葉が存在してから、意味が加わるのだ。言葉がどのように使われているか、何を指して使うのか、よく観て、はじめて意味がともなうのだ。
ここで思い出したのが、哲学者ウィトゲンシュタインである。
言葉の意味は使用である、つまり、言葉の意味は使われ方にある。言葉そのものの内部に「意味」が含まれていて、それを言葉で表現したのではない。言葉がはじめから存在していて、会話やコミュニケーション、生活そのものでお互いに違和感なく使われているときに、「意味」も存在するといえる。
やはり、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」なのだ。
小林秀雄も池田晶子も、徹底的に「言葉」に向き合っている。『考えるヒント』とその本歌取りはもちろんのこと、まったく結びつきはないものの、小林秀雄は『ことばの力』、池田晶子は『言葉の力』という作品もある。その二人の「言葉」についての文章を読んでいくと思い浮かぶ、つながっていくのが、実はウィトゲンシュタインである。
『私の人生観』から発想や知識の連鎖に身をたゆたっていて、ずいぶん遠くまで漂ってしまった。そろそろ『私の人生観』の本文に戻ろう。
(つづく)
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