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間宮改衣『ここはすべての夜明けまえ』

間宮改衣『ここはすべての夜明けまえ』を読む。

不死の身体を手に入れた「わたし」が、ひとり遺された2123年の九州で、喪った父や兄姉、そして「あいしていた」恋人について、家族史をつづる。近未来だが、家にあるコンピュータや端末は動かないという理由で、その来歴は紙に手書きだ。機械の身体を持ち疲労とは無縁でも、画数の多い漢字は単に面倒だという理由で、物語の大半は平仮名で書かれ、幼さすら感じる。

10代から続く苦しみから逃れたい。食べては吐くの繰り返しで、もともと「わたし」は自死を望んでいた。すでに安楽的な自死は合法化されていたものの、娘を溺愛する父親は当然、反対する。身体的な苦痛から逃れたいのならばと、人間の脳と血の通わない身体をもつ「融合手術」を薦められ、そんな不老不死の身体を手に入れたのだ。

だが生身の人間である父や兄姉たちは時とともに老いてゆき、死を迎える。「わたし」の融合手術と同じに日に生まれ、幼い頃から世話をしていた甥の「シンちゃん」も、25歳の身体から変化のない「わたし」を追い越し、100歳で亡くなる。その1世紀で、地球は気候変動を起こし、日本は四季がなくなり、気温が高くなって屋外にはもはや出られない。そのうえ、東京は地震によって壊滅する。過疎も進み、もはや人々が住まなくなった九州の山奥で、家族について述懐しながらも、その日々は「わたしの人生はどうにもならなかった」という後悔に満ちている。

生きていくうえで、忘れていいこと、忘れてはならないこと、忘れなければならないことがある。

大切な人を喪ったとき、時をやり過ごすほかにできることは、そんな思い出の仕分けだという。もとは関西弁なので、共通語にしたとき、ほんとうの意味がつかめているか心もとない。河瀬直美監督の映画『沙羅双樹』の台詞を以前、朝日新聞「折々のことば」で哲学者の鷲田清一が引いていた。

「わたし」は脳にメモリが埋め込まれているので、いつでも思い出は鮮明であり、忘れたくても、忘れられない。しかし、不老不死だったはずの自分の身体も、少しずつ傷んできたのを自覚する。メンテナンスをしてくれた「シンちゃん」も、もういない。自分が死んでしまえば、記憶も滅びる。だから記録に遺したい。

1から3まで番号がふられた「わたし」の一人語りは、それぞれ文体が異なる。1は紙への手書き。2はおそらく口述の記録だろう。3は口頭による「シンちゃん」への呼びかけのようだが、手紙のようにも読める。その語り口は、まさに自分語りであるナラティブならではの豊かさを感じる。「わたし」は語ることで、自分が傷ついていたこと、自分が傷つけていたことに気付く。この物語が、自己省察によって自らを理解するオートエスノグラフィーとなった。書くことは、自分自身を映し出し、己を知る営みである。

物語の終わりで、「わたし」は、いまは亡き「シンちゃん」に語りかける。

いまはよあけまえ、だけどゆうやけのようにそらがあかくそまり、ほんとうのところ、あさなのかゆうがたなのかわからなくなるような、とてもきれいなけしきがひろがっています。

忘れていいこと、忘れてはならないこと、忘れなければならないこと。思い出を仕分けすることが、残されたこれからの日々を思い出にするはじまりである。歴史とは、思い出すこと。思い出すことで、懐かしい未来を生きるのだ。

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