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「批評」の平静と品位こそ「美」である

話を『私の人生観』本文に戻す。

小林秀雄は詩人リルケの言葉を用いて、「美」についての考えを述べる。

美は人を沈黙させる。それなのに、美学者は美の観念、すなわち美とは何かという妙なものを探している。「美」を作り出そうと考えている芸術家は、そんな美学の影響を受けているだけであり、むしろ空想家といえよう。

芸術家は、物を作る。美しい物を作ろうとはしていない。一種の物を作っているだけだ。苦心して様々な道具を作り、完成したものが、作り手を離れて置かれたとき、それは自然物の仲間に入る。物の持つ平静と品位を得るということだ。

物を作らぬ人にだけ、美は観念なのである。観念は決して人を黙らせぬ。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p184

この「物を作らぬ人」とは誰のことだろうか。文脈からすれば、「美学者」である。たが、小林秀雄の脳裏にあったのは、「批評家」ではないだろうか。

小林秀雄こそ、批評家ではないか。そうである。自己批判でもあろう。しかし、文芸時評の第一線から退き、己の信じる批評を書くのだという意思はすでに表明している。

真っ白な原稿用紙を拡げて、何を書くか分からないで、詩でも書くような批評も書けぬものか。(中略)批評だって芸術なのだ。そこに美がなくてはならぬ。そろばんを弾くように書いた批評文なぞ、もう沢山だ。退屈で退屈でやり切れぬ。

『コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで(座談)』「小林秀雄全作品」第15集p29

詩と批評の近接。フランス象徴主義のシャルル・ボードレールの影響が大きいにせよ、それをわが国で、日本語で挑んだのが小林秀雄だった。詩でも書くような批評を書きたい。批評も芸術だ。だからこそ、批評に美を求めたのだ。

僕はただ言いたいことを言ったんです。するとそれが批評の形式を取ったんです。(中略)自分の批評を後から読んでみても、褒めた時のほうが文章としていいですね。他人ひとけなした時は駄目なんだね。貶す時には分析ができるわけです。(中略)褒める時には必ず感動がある。感動は分析できないものなんですね。感動が文章の中心にあって書こうとすると、感動自身は非常に言いにくいし、分析しがたい。文章っていうものがそこで生まれてくるんですよ。分析している間は論理なんです。そこへ感情が入って来ないんです。

中村明「玄人 小林秀雄」『作家の文体』(ちくま学芸文庫)p228

分析している間は論理だ。これは美学者が美の観念、すなわち美とは何かと理屈で考えていることにほかならない。芸術家は、美しい物を作ろうとたくらんでいるわけではない。ただ物をつくるのだ。批評も同様で、うまい批評を書いてやろうとたくらめば、分析中心となる。感動はそこに含まれない。小林秀雄の出発点は、美に感動することだ。もともと感動は分析しがたい。だから褒める。言いたいことを、言っているだけ。それが小林秀雄の手を離れたときに、物としての「批評」となる。自然物の仲間に入る。物の持つ平静と品位を得る。「批評」の平静と品位こそ「美」であると小林秀雄は考えたのだ。

(つづく)

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