知性の限りを尽し、言葉を尽す
小林秀雄は、なぜそこまでベルクソンに惹かれるのだろう。「彼の天才は、…」という語り出しで(『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p186)で端的に語っている。
まず、哲学における専門用語、とくに哲学者が造語したり、個人的に定義した術語を用いずに、みずからの言葉、日常の言葉で正確に考えようとしたところを挙げている。
次に、実在をあるがままに記述するためには、意識に着目し、それを直観するにはどうしたらよいのかという方法論に魅力を感じている。意識には量と質があるが、量は測れても質は測れるものではない。そこを超えるのが直観であり、言葉である。その言葉に対するベルクソンの態度に、小林秀雄は芸術家や詩人の姿を重ねる。
告白しよう。これは、我々が小林秀雄の文章に惹かれることそのものである。
アカデミックから距離を置き、インテリを嫌い抜き、理論や専門用語を用いず、徒手空拳で対象に切り込んでいく。論理や分析よりも、まず自分の感動を起点にし、肉眼よりも心眼を重んじ、言葉を尽して語る。結果として、詩となる。
小林秀雄の批評精神は、詩と批評の近接を図ったフランス象徴主義、とりわけボードレールの影響が強いと自ら語っている。その一方で、哲学においてはベルクソンの影響が強い。ベルクソン自身が意識していたかどうかは分からないが、小林秀雄からすればベルクソンに、詩と哲学の近接を見た。それは単なるイメージを言葉で表すことによって概念を正確に表すということにとどまらない。言葉で考え、言葉で理解し、言葉で表し、言葉で伝える。ベルクソンの、言葉の向き合い方に、小林秀雄は感じるところがあったのだろう。
文は人なり。そして、思想と文体とは離せない。
(つづく)
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