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(7/18)「鳥瞰的視点(survol)から眺めること」〜スピノザ『知性改善論』ゼミ(@ソトのガクエン)レポート#10

みなさん、こんにちは。ソトのガクエンの小林です。
7月18日(木)に実施されました、スピノザ『知性改善論』ゼミのレポートです。7月分もいよいよ残すところあと2回となりました。

今回は、『知性改善論』(講談社学術文庫)52ページの第59節(B59=A38)から65節まで読み進めました。まず、第61節までの内容を要約します。
私たちが真なる観念を持っており、その感覚を保ったまま推論すれば真なる知が得られるし、偽なる観念である場合は、正しく推論すれば必ず背理が生じるので偽であることが判明する。これを理解せず、あれこれ言っているのは(前に懐疑論者への批判がありました)、ただ錯乱している状態であるということでした。

次に、第62節〜65節の内容を、一挙に(ざっくりと)まとめます。

最初に私たちがもつ観念が仮構されたものでなく、そこから他の観念が導出されさえすれば、仮構してしまうことは徐々になくなる。仮構された観念は、明晰かつ判然としていることはありえず、むしろ混然としたものであるほかない。そして、この混然性は、多くの要素からなるまとまりのあるものを精神がただ部分的に認識していること、知られているものを知られていないものから区別していないこと、さらに、当の多くの要素を区別することなく精神が同時にそれらに注意を向けることに由来するとスピノザは述べています。

以上のことから、次のことが帰結します。
第一に、観念が最も単純なものについての観念であれば(部分を持たないがゆえに)明晰かつ判然に全面的に認識されるしかありえない、そうでなければ何も認識されないかのいずれにしかならないということ。
第二に、多くの要素から合成されているものが、思考によって最も単純な部分に分割され、各々に逐一注意が向けられるなら、一切の混然性が消え去るということ。
第三に、単純なものについての仮構はありえず、多様で混然としたものは、(精神が)こうした多様な観念に対して同意することなく一挙に注意を向けることから成り立っているということ。

これまでの議論を踏まえると、もの〔そのもの〕が明晰に概念される場合には何も仮構しえないし、逆に、自然に実在する様々なものや混然とした諸観念に一挙に注意を向ける場合には仮構が生じる。単純なものであれば仮構されることはなく、むしろ知解されることができるし、ならば、合成されたものであっても、それを合成している単純な諸部分に注意を向ければ、真ならざるいかなる仮構もしえないということになる。よって、仮構が真の観念と混同される恐れはまったくないということを確認するというのが第65節の内容でした。

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最後に、佐々木さんが、参加者の方からの質問に関連して、「観想する」という語について、ある合成されているものを構成している諸要素を、その単純性(観念)にまで辿り、その各々を判明かつ判然と捉えつつ、同時に諸観念間のとりうる連関を見ている状態が「観想する」ということの意味(なので感覚にも近く、知解にも近い状態)と言われていたことがとても興味深かったです。能動的でも受動的でもない、むしろ、そのいずれでもある、いわば鳥瞰的な視点からの眺めでありながらも、見下ろしたその細部が全て同じ解像度で見えている状態。これを聞いていて、ドゥルーズとガタリが『哲学とは何か』のなかで俯瞰的に(鳥瞰的に)見ること(se survoler)ということの意味が分かった気がしました。


さて次回は、7月25日(木)22時、7月ラスト回です。第66節(58ページ)から「偽なる観念」の分析に突入いたします。ぜひ皆様、お気軽にご参加ください!


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