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エッセイ:積み重なる相互誤解は、きっと

こんにちは、デレラです。

わたしは、オフィスワーカーとして日銭を稼いでおります。

オフィスが都市圏にある、ということもあり、

2020年からは、在宅ワークという新しい働き方、とやらを試みているんであります。

いわゆるテレワークですね。

何が新しいって、なんといっても、アプリを使った上司とのコミュニケーション。

画面ごしの上司の顔、イヤホンから聞こえる上司の声。

違和感たっぷり!!

だったのは最初だけ。。。

週に一回、多くて三回、一年も経てば慣れるもの。

しかし、思うことがありました。

ああ、それは、コミュニケーションについて。

コミュニケーション、会話、相互理解とは何か。

相手が何を言っているか理解して、自分が何を言っているか相手に伝わること。

今となっては、テレワークも慣れましたが、

やはり、最初に感じた違和感を、

わたしは、忘れられないんであります。

違和感。

それは指示代名詞が使えないということ。


出社していれば、いつも上司は隣にいて、「この資料です」と話しかけていました。

この資料の、ここの、この部分です。

ええ、ええ、ここの部分がなんとも、どうしようかと。。。

ええ! そうですか、そんな事情が、じゃあ、これはこうして、こうしないと、

総務と経理が困っちゃいますね、ええ、ええ、向こうにはわたしからメールしときます、

なんて会話が簡単にできるわけなんであります。


指示代名詞が便利なこと、便利なこと。

「あれ・これ・それ」で不思議と伝わってしまうんですねえ。

どこかの神さまは、七日間で世界を創ったと言いますが、

おそらく、最初の一日目に指示代名詞を創ったことでしょう。

あれをああやって、ああして創って、

でもそうすると、ああしないと、

光だけじゃダメじゃない、といった具合。


さて、わたしが言いたいのは、

面と向かって会話できることの長所は、

指示代名詞が使える、ということ。

面と向かわないテレワークで、指示代名詞を使うと、

どんどんズレていってしまうんですねえ。

会話のズレ。


そうして、わたしは、飛躍して思うんであります。

そもそも、会話ってのは、うまく伝わらんもんだなあ、と。

ああ、ああ、そうして思い至るんであります。

コミュニケーションは、そもそも難しかったことを。

最近は、離れた場所にいても、

SNSやら、スマホやら、アプリケーションで繋がることができる。

でも、繋がるだけじゃあ、コミュニケーションになりません。

では、コミュニケーションとは、何なのか。

相互理解とは、何なのか。

わたしは、ここで、村上春樹さんの言葉を引用することにしましょう。


「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」
(村上春樹『スプートニクの恋人』p.202,講談社文庫,2001)


理解は、誤解の総体である、とは、いやはや、流石は村上春樹さんですねえ。

完全に矛盾している。

何を言っているか、ぜんぜん分からないじゃあ、ありませんか。

誤解してたら、理解なんてできない、

そう思いますよねえ。ええ、ええ。

では、これはいったい全体、どういうことなのでしょうか。


理解できるということは、ふつう、相手のことを理解する、

あるいは、相手が自分のことを理解している、みたいにして使いますねえ。

でも、どうでしょうか。

体感的に、誰かを理解すること、誰かに理解されることって、少ない気がします。

というか、誰かに、自分のことを正確に理解してもらえることなんて、

ほとんど無いじゃあ、ありませんか。

と同時に、わたしは、誰かを正確に理解できているということも、無いのかもしれません。


ああ、ああ。わたしは、誰かを理解したい、けれども、できないんであります。

なぜでしょうか。

だって、わたしは、あなたと違うから。

生まれた土地が違う、生まれたときが違う、生まれ持つ身体が違う。

ちょっとでも違えば、完全な理解はできません。

わたしが、あなたを完全に、正確に理解できるということは、

同じ土地に生まれ、同じときに生まれ、同じ身体を持つということ。

そんなことは、不可能ではありませんか。

そうです、不可能なんであります。

そう考えてみると、完全な理解、だなんてできない。

じゃあ、わたしは、完全に、ではなくとも、「少しの理解」もできないんでしょうか。

少しの理解。

体感的には、ときどきは、あるひとを理解している、

と思うことがあるんであります、わたしは。

常にではないけれど、ときどき、ほんとうに稀に、

友人や、近しいひとを少し理解できているんでないか、と。

でも、それはどうやって?


わたしは、ひとを完全に理解することはできません。

会話していると、お互いに少しづつズレていく。

ということは、長く一緒にいればいるほど、

たくさんの会話をすればするほど、

誤解が蓄積していく、ということでしょう。

でも、長く一緒にいて、たくさんの会話をする友人や家族は、

どちらかと言うと、少し理解しやすいと思うんであります。

なぜ、誤解が蓄積した方が、理解しやすいのでしょうか。

つまり、こう思うんです。

そのズレを、まるっと丸ごと、お互いに承認しあうことで、

積み重なった誤解を、認めることで、少しの理解に到達する。

たくさんの誤解を積み重ねると、少しだけ、相手を理解できる。

いわば、数を打てば、当たるってもんで、

そのときは外していても、別のときに当たったりする。

その意味で、村上春樹さんの言うことは、全く正しいんであります。


わたしは、相手との会話において、誤解を積み重ねることで、

二人の間には、無限の境目があり、誤解がある、ということを認め合うことで、

その誤解に、ときには傷つき、ときには苛立ち、ときには笑い合うことで、

誤解の積み重ね、誤解の共有によって、初めて相手を理解できる。


綺麗ごとでしょうか、こんなこと。

誤解を笑い合うだなんて、できるでしょうか。

ああ、ああ、笑い合えないことだってあるでしょう。

許せない誤解だってあるでしょう。

ここまで長々と、誤解を笑い合える、だなんて、書いてきたわたしは、

一方で、「笑い合えない誤解」があると確信しているんであります。

笑い合えない誤解、許せない誤解、許してもらえない誤解だってある。

それは絶対に否定できないんであります。

全部の誤解が、笑い合える、だなんて、綺麗ごとでしょう。


ええ、ええ、笑い合えない誤解は、絶対にあるんであります。

友人や仕事仲間、家族、恋人、普段からずっと一緒にいればいるほど、

誤解されたら、悲しいし、ときには、許せないことだって当然ある。

でも、いまは笑えないし、許せなかった誤解も、

ときがたてば、笑える誤解になる。

もちろん、いつまでも笑い合えない誤解もあるのだけれど。


あるときは許せても、べつのときは許せない誤解もある。

だけれど、ときと場合によって、

笑い合えない誤解は、笑い合える誤解に反転するし、

笑い合える誤解もまた、笑い合えない誤解に反転する。

もちろん、反転しないこともある。

こうした、笑い合える誤解、笑い合えない誤解、

反転する誤解、反転しない誤解、

あらゆる誤解の総体が、きっと、相互理解の基盤なんであります。


笑い合える誤解と、笑い合えない誤解が、同時に存在して、雑居していて、

突然、反転する。


だから、理解とは、やはり、誤解の総体で、

また、誤解の総体とは、

笑い合える誤解と、笑い合えない誤解のごった煮なんであります。


さてさて、これで、めでたしめでたし、でしょうか。

いろんな誤解があるけど、それは理解の基盤だから、という結論でよいのでしょうか。

ああ、ああ、だめだ、ここでこの記事を終わっちゃあ、だめなんだ、と、

思うんであります、わたしは。

確かに、誤解の総体は、理解の基盤であり、

理解とは、笑い合える誤解と、笑い合えない誤解の「ごった煮」なのかも知れません。

でも、わたしは、この先を言わなければならないんであります。

それは、「理解」って本当に良いことなのか、ということ。

理解し合えば、それでオールOKなのでありましょうか。

ああ、ああ、わたしは、そう思えません。

誤解には、笑い合える誤解と、笑い合えない誤解があったように、

当然、理解にも、笑い合える理解と、笑い合えない理解があるんであります。

近しい家族だからこそ、理解できてしまい、同族嫌悪を抱く。

近しい恋人だからこそ、理解できしてまい、嘘を吐かれているのが分かる。

近しい友人だからこそ、理解できてしまい、強がりが見抜かれる。

笑い合えない理解が、ある、ということ。


ええ、ええ、理解は良いことばかりじゃない。

でも、笑い合えない誤解が、笑い合える誤解に反転するように、

笑い合えない理解もまた、笑い合える理解に反転するんであります。


あるときは「笑い合える誤解」 ⇔ 別のときは「笑い合えない誤解」

あるときは「笑い合える理解」 ⇔ 別のときは「笑い合えない理解」


そして、入り乱れる。


あるときは「笑い合える誤解」 ⇔ 別のときは「笑い合えない理解」

あるときは「笑い合える理解」 ⇔ 別のときは「笑い合えない誤解」


もっと、もっと入り乱れる。



あるときは「笑い合える誤解」 ⇔ 別のときは「笑い合える理解」

あるときは「笑い合えない理解」 ⇔ 別のときは「笑い合えない誤解」


この入り乱れ、混乱、混沌の総体が、

コミュニケーションの正体なんであります。

理解したからといって、良いわけじゃあない。

誤解したからといって、悪いわけじゃあない。

ひとつひとつの会話、

ひとつひとつのコメント、

ひとつひとつのLINE、

ひとつひとつのメッセージが、

理解と、誤解を、行ったり来たりする。

笑い合えるときと、笑い合えないときを、行ったり来たりする。

その混乱、混沌のなかで、わたしは、

ああ、ああ、わたしは、

皆さんの記事を読んで、誤解をしてしまうかもしれない、

的を外したコメントをしてしまうかもしれない、

でも、それが一歩目だと信じて、

あなたとわたしの「混乱」の一歩目だと信じて、

「誤解」⇔「理解」を積み重ねてみたい、そう思うんであります。


その積み重ね、混乱こそ、コミュニケーションというものだから、きっと。



おわり

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