Text.2024.6/17~6/24
6/17 運転を見合わせております
17日午後12時26分頃、東京メトロ東西線高田馬場駅で人身事故が発生しかけた。ボケッと群衆の先頭で電車を待っていたところ、フラフラと線路に落ちてしまいかけたそうだ。話を聞く限りでは、別に死にたいだとかを強く思っていたわけではないらしいが、なんとなく、本当になんとなくフラっと重心が前方へと傾いたそうだ。なぜ起こり得なかった事件について知っているのか。私の話だからだ。
ここ最近、どういうわけか、生活と死の距離が近い。高所の柵に登ってみたり、濡れた手でドライヤーのコンセントを繋いだり、車が止まるのを確認せずに横断歩道に突入したり、その程度のことだ。昔なら確実に気を付けていたことに、気づきながらにして実行してしまう。疲れてんのかな。希死念慮はもともとある方ではないが、今はただ漠然と死にたくないし生きてたくもないと思ったりしてしまう。
まぁ結局のところ、そんな状態に陥っているのは空腹時か睡眠不足かとか、そんな時だ。飯を食えば笑顔になるし、しっかり寝れば焦らず生きられる。かように心がコロコロと変わってしまうと、人間の心なんてものはホルモンだとかそういった物質的なものが作用してるに過ぎないんだなとか思って少し悲しい。ハートは確実に身体の中央部やや左にあるはずなのに。よく食べて寝るだけで悲しみを忘れる身体がすこしだけ寂しい。
6/19 耳を閉じる為に
外でも屋内でもいつでもどこでも、24時間四六時中365日イヤホンをしている。と言うと少し過言だが、まぁ一日の大半はイヤホンを耳にしている。近所の中古ショップで6000円だったものだ。外の煩さが少し苦手だから、それと距離をとるためにしている。なにも流さずにノイズキャンセリングをしている時もあるし、気に入った音楽やPodcastを聴いたり、YouTubeを流したり、多分皆と変わらない。その布陣をもってして、私は世界と距離を置く。
その日は生憎、イヤホンの充電を切らしていた。有線ならそんなことはなかったのに、ハイテクが故の面倒といったやつが牙を剥いてきた。それではノイズキャンセリングも効果がない。かといって音の流れない金属片を耳にぶっさす道理もない。久方ぶりに外を聴いてみることにした。あまりにも静かで、寂しかった。
6/21 ↑→↓←
スマートフォンの液晶で映画を観る。気になった部分があれば"巻き戻し"て、感想を"打ち込む"。実際に行っている動作はガラスの面を優しく撫でているだけだ。打ち込まれたそれをフロッピーディスクのマークを押下して保存し、友人に感想を伝えるため受話器のマークを押下して電話を掛ける。実際にこれらの存在を知っている若者は限り無く少ないのにまだこのデザインだ。言葉もデザインもまるで進化していない。換骨奪胎され、変化しているだけだ。
しっくり来ない。こう思うようになったのもnoteに日記を記すようになってからだ。なかなか電子媒体で自由な作文を作ることがないので気にも止めていなかったが、毎度毎度「書いている」という言い回しを使おうとする度にしっくり来ないので別の表現に変えている。その様子は私の日記を見返して貰えればきっとわかる。ちなみにAIの画像生成にも「描く」ではなく「生成する」という言い回しを私は頑なにしている。きっと今後は「食べる」が「注ぐ」だとかに変わったり、「移動する」が「転位する」に変わったりするのだろうか。今はネイティブで新しい言葉を話せているが、これが数十年後となると自信がない。弱冠二十歳の現在でさえ勝手に想像上の言葉遣い警察という自意識が「いやこれ書いていると言うよりは入力してる、だとか打ち込んでいる、が適切ですよね?」と詰問してくる様子が目に浮かぶのだ。困っている。早くJISかどっかが規格書を書く入力するべきだ。
6/24 クレープが効いてる
私のは抹茶餅クレープだった。小麦の薄皮にこれでもかとホイップクリーム、抹茶クリーム、その中央に小豆を忍ばせ、上に求肥が2枚。ところで私は21歳だ。今年の8月で22歳。自認としてはまだ若人なのだが、身体は甘味の猛攻にはもう耐えられないようだ。イオンでの無意味な探検は一時中断し、珈琲を取り扱っている自販機というゴールを目指したレースへと休暇は趣を変えた。
私は所謂甘党で、どこかへ遠出でもした際には、その地元にあるカフェだの喫茶店だので糖の摂取を必ずしていたものだった。それが今じゃこの様だ。幼い頃にはわからなかった。お祝い事の時、ケーキを目の前にした時、父親だけがテンションは凪のまま、1口だけ食して私ら子供に与えていた理由が。
でも1口目の美味しさだけは10年前から変わらないから困ったものだ。身体が耐えられなくなっただけで美味しさはそのままなのだから、爽やかでカロリーオフの健康的なあれやこれでは私の味蕾が頷かない。でも1口だけ食べて残すというのもなんだか申し訳ない気がして気が引ける。ものすごく小さい一口サイズでしっかり美味しいスイーツが市場で覇権を取ってくれれば都合がいいのにと思う。もしくはシェアして食べたい。三大欲求のうち、性欲を解消するためのマッチングアプリがあるのだから、食欲を、それも特に身体へのダメージが大きい食品を食べたいという欲求を解放させたいという者達をマッチングさせるサービスがあればいいのにと思う。まぁ知らない人と食べるホールケーキの味の薄さにも耐えられそうにないが。結局「じじいっぽい」は年相応の正しい変化らしい。ただ絶対に抗いたいので、私は味だけ味わって胃にたまる分を誰かに擦り付ける装置が開発されるまで生きたい。生きたいけれど、こんなに愚かで自己中な私の前にそんな装置があったら、きっと自分のための食事を忘れて餓死してしまう気がした。若者の自分はちゃんと中年になってジジイになって死ぬのが正解なのかもしれない、悔しいが。
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