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一生自我を出さずに生きていくのか

いずれみんな死ぬ。そのことは確実であるのに、不思議でもある。死んだ時の感覚は死んだ人にしかわからない。「わたしあの時死んだんですけどね〜」というエピソードトークは存在しない。心臓が止まりかけたとか、意図的にしようとした未遂の場合でも、それは死ではない。

怖くもあるけど、それが救いでもある。いつかは必ず終わる。死ねる。すごく辛い、恥ずかしい、しんどい、いつまでこんなことが続くのか。そういうことが生きていたら少なからずある。でも、終わることも確実に決まっている。やろうと思えば、自分の力で終わらせることも不可能ではない。

土門蘭さんの作品を手に取ったのは2023年4月末。

Amazonの購入履歴

こういうとき、ネットショッピングは便利だ。レシートを取っておくはずはなく、支出をまとめるなんてまめなこともしていない。記憶もあいまい。そんなずぼら人間でも、数クリック検索さえすればデータが遡れる。

そもそもこの作品「死ぬまで生きる日記」きっかけで土門さんを知ったのか、土門さんを知ってからこの作品に出会ったのか。それすらももう覚えていない。

とにかく、まずこのタイトルにビビッときた、気がする。“死ぬまで生きる”まさにわたしもそうだから。将来こうなりたい!とかなく、生まれて生きてしまっているから“死ぬまで生きる”。

それから、こちらのサイトで一部が読めるようになっている。この冒頭部分を読んで、さらにぐっときた。わかる。自殺未遂までいかない、いけないけど、確かに死にたい。それも長いことずっと。

わたしは自分のことを火星人だと思ったことはない。でも、誰といてもなんだかさみしいという気持ちにもまた共感ができた。

そうして早速Amazonで本を購入した。最初のうちは外に出るたび持って行き、合間で読もうとした。でも、どうしても堪えきれないほど泣いてしまう。それもかなりのページで。だから、外では読めなくなった。家で読むにも少しエネルギーがいる。共感ができすぎて、少し読んでは自分の中に染み渡らせる時間が必要になる。寒い時、温かい飲み物を飲んだら喉から食道を通って胃まで行き渡るのが分かるような感覚。それよりももっとゆっくりで、じんわりとした感覚。

少しでも死にたいと思ったことがある人には読んでほしい一冊。そういう人と関わる人にもいいかもしれない。元気そうに見えて実はって人、本当はたくさんいるんだろうな。

それで、すごく好きな方のうちの1人になった土門蘭さん。最近、Voicy「土門蘭の書書然然」を始められた。とてもうれしい。わたしは広く浅くより、好きになったものをとことんタイプ。こういう素晴らしいものを書ける人は、どんなことを考えているの?どんな暮らしをしているの?と、いろいろ気になってしまう。

またひとつ、それが分かる、しかも文字でなく実際の空気感が伝わる音声の媒体というのもまたいい。

さっそく、そのためだけにVoicyアプリをダウンロードして聴いた。声もとても素敵。落ち着く。文章はきれいなんだけど、かっこつけていなくて、そして安心できて落ち着く感じ。森林のような感じだな、と思っていた。綺麗で壮大だけどつくっていない感じ。このVoicyで聴ける語り口も、それと一致しているなと思う。話し方や声色には人間性が出る。

もう何周も聴いているのだが、その中の#012「個性を消す」とは?を聴き、思ったことがありこの記事を書くに至った。

「自我を残して自意識を消す」という言葉。
自意識=人からどう思われるか、自分はこの社会でどういう評価をもらいたいか、みたいなこと。
自我=本当のこと。素直に自分の中から出てくること。感動や感情。

土門さんはインタビューをする際には、自意識を無理やりひん剥いて、自分から引き剥がして本当に思っていることを聞くようにしているという。それは文章を書くときも同じだそう。本当に思っていることを書く。

自分がどう思われるかなんて、すごいちっぽけなこと。それよりは、本当のことを書くことの方がすごく価値のあること。

いやー本当にそうだなあと思った。というか、なんとなくぼんやり思っていたことを、しっかりと腑に落ちるように言語化してもらった感覚。

わたしは自我がなくて、自意識だけあるなと思う。いや、自我が完全になくなることはないはずなんだけど、自分で自分の自我を喪失してしまっている。当たり前に意識せずともそれを持っている人からしたら、何を言っているのかわからないと思うけど。

以前書いた、うなげろりんで言われていた「ハズレ感」の正体についても、こういうことが言いたかった。自意識が強い=他人の目を気にしすぎて演じてしまいがちな人が「ハズレ感」のある人なのではないかな。自我が薄い人。

みんな嘘じゃん。ほんとのこと言ってないじゃん。と思ってしまう場面が、特に大人になると多いように思う。でも、やっぱり表現する人、生み出す側の人は自我をきちんと出していると思う。そしてそんな人は魅力的だと思う。

わたしがテレビを見なくなったのも、同じことだ。自意識ばかりが溢れているように思えて、全然たのしくない。おもしろくない。みんな忖度につぐ忖度をしている。誰かが求めることを言って、綺麗に取り繕っているだけのように思う。スポンサーありきの商売なので、仕方がないことは分かるが。

だからわたしはYouTubeにハマったのだと思う。そして最近はお笑いに。そしてラジオ。もちろん全てが本心な訳はない。権力に屈している場面もあると思う。でも、明らかに自我が強いフィールドだと思う。逆に、自我がないものは沙汰されていく。YouTuberや芸人はそれが顕著な仕事ではないか。

初めは自我を隠そうというよりも、人のことを優先しよう、人のことを考えよう、人に合わせようという気持ちだったと思う。だんだんそうやって人の顔色ばかり窺っているうち、あなたはどう思うの?どうしたい?と言われても、分からなくなった。「あなたは今私にどんな答えを求めていますか?」という考えが出てきてしまう。「どっちでもいい」が最悪なのは分かっているのに、本当に分からない。ひどい時は、1人でいて誰にも気を遣わなくてもいいはずの場面でも、選べないことが増えてきた。

自我を取り戻すにはどうしたらいいんだろうなあ。土門さんのように、何を言ってもいい場所(誰にも見せないノートとか)で自分の気持ちを、素直に書く習慣をつけることだろうか。(これもVoicy#004あたりでお話されている)

一般社会では自意識の方が重視されがちのように思う。日本ぽい組織ほど。自我、養うの難易度高すぎる。自我で仕事してみたい。

カムバック、自我。

Voicy#011で話されていた、フリーペーパー「音読」のサイトの連載もおもしろくて今読んでいる。

Voicyの中で出てきたのは「スタンド30代」だが、この「日刊ランラン子育て帖」を過去から順番に読んでいる。

普段noteで書かれている日記や、書籍、SNSではすごくきれいで整えられた文体という印象がある。しかし、この連載、特に最初の方の記事ではかなり砕けた表現が使われているように思う。それが親近感がわいてとてもいい。土門さんもこんな風な表現を使うんだ。こんな一面もあるんだ。そりゃそうなのかもしれないけど、なんだかホッとする。方言もとてもいい。

フリーペーパーも読んでみたいなあ。

土門さんは私がぼんやり思っていたことの、言語化をしてくれる方だ。生み出されるコンテンツを摂取することが、ある種カウンセリングのように感じる。

今週初めて、土門さんが登壇されるイベントに参加する。初生土門蘭さん、たのしみだ。今はこのイベントで初めて知ることになった、蟹の親子さんの「脳のお休み」を買って読んでいる最中。痛い(物理的に)表現や生々しい表現が多い印象。刃物が苦手?なわたしにはうぅ…となってしまう場面も多い。

イベント予約してくれて、行けるお金を稼いでくれて、自分サンキュー!!!!


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