*MILLENNIUM PARADE / FAMILIA

MILLENNIUM PARADEさんのFAMILIA

ひとつの極限のような状態から気がつく
幸せや愛

そういった状況でこそ見えるもの
そうだからこそ見えたと思えることは
あるのかも知れません

しかし、そうならねば見えぬもののみが
愛や幸せであるとするならば
それはすでに大きな不幸との対比の中でしか
見えないこと
もう少し言えば
大きな不幸と共にしか愛や幸せは訪れないこと
という認識になってしまいます

愛や幸せと言えば少し大げさかも知れません

もう少し、日々の日常で有り得そうな物事へ落とし込んで見れば

朝、自分がはじめてすれ違う隣人や職場の同僚
彼等彼女等がそこにあり、自分がそこにある
日々をそのひとなりに生きた結果
今日も彼等彼女等と顔を合わせ
お互いを認識すればこそ
挨拶が生まれ
さらに好感を持っていれば
より大きな笑顔や会話がはずむ

色々な解釈の仕方はあると思いますが
そのふれあいひとつが有り難いことであり
少しでもこころを
向け合うことが出来るというのは
大きくはなくとも小さな愛の形やその一部の
表出であると感じています

興味関心の向け方の強弱、方向性によって
時にそれは狂気じみたものになることもあり
忌避されることもあるでしょう

その強弱や方向性の取り扱いかたを
日々見直す中でだんだんと穏やかに
そして少しの喜びを感じられる
極端でない範囲の
ほどよい心地よい空気感を
自分の感覚に落とし込む

そして、相手によって若干違う
それらの感覚の日々のすり合わせで
互いのおべっかによる
高揚感などのようなものではなく
何気ない会話や沈黙の中で
一緒にいて心地よいひとと
出来るだけの時間を過ごす

愛や幸せは大げさなものでしょうか
ドラマチックでなければならないでしょうか

日々の営みの中で小さくとも
こころが触れ合ったな

そう思えることが少しでもあったなら

幸せです

その中で

このひととそういった時間を多く

過ごせたら

このひとにだったら こんなふうに

接してあげたい

そうしたら どんな表情をするだろうか

どんなことばが帰ってくるだろうか

そんなふうに考え 日々の行動を決める

それはすでに愛なのではないでしょうか


よいお時間をお過ごしください:)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?