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インタビュー:三澤建人「デザインのユートピアとUIという地平」<前編>

こんにちは。DDDPの中倉です。

今回はUIデザイナー・三澤建人さんへのインタビューをお送り致します。

このインタビューでは、以前「ギモン・コラム」にて掲載しました、デザインに対する私のギモンを叩き台として、デザインにまつわる様々なお話を伺いました。

前編では主に、プロダクトデザインからUIデザインへ活動の領域を移した経緯や、仕事への考え方と姿勢、そして、三澤さんの採る「デザインの方向性」などについて語っていただきました。

目次
・プロダクトからUIへ
・クール9割、パッション1割
・神様のためのデザインと、人のためのデザイン

プロダクトからUIへ

中倉 今回はUIデザイナーの三澤建人さんに、デザインとはなにか、デザインの持つ豊かさや、デザインが夢見るユートピアとはいったいどんなものか、といったテーマを中心として、様々なお話を伺うことができればと思います。

まずは三澤さんの経歴について簡単にお伺いしたいと思います。

三澤さんは、九州工業大学で情報工学などを学ばれた後、京都工芸繊維大学のデザイン科学へと編入されています。 卒業後はプロダクトデザインの道へ進み、後にUIデザインへと活動の場を移されたわけですが、そこにはどういった経緯があるのでしょうか?

三澤 2013年の春に大学を卒業して一旦メーカーに入り、その後10月にスタジオSという、柴田文江さんのデザイン事務所に入りました。在籍していたのは2014年の8月までの十か月です。その後、Zibaに入社し、そこで所属した担当部署がUIだったんです。

スタジオSをやめたのは……自分でもはっきりとは分かっていませんが、単純に要領が悪くてボロボロになったというのもありますし、どうしても形に重きを置かれるプロダクトという分野への興味が薄れていたというのもあると思います。次にやるならプロダクト以外のデザインがいい、そう思っていたことは事実です。

UIにはもともと興味があって、チャンスがあればやってみたいなと思っていました。社会的な需要も増えているし、プログラミングを学んでいた時期もあったので、自分に向いていると思ったんです。

中倉 デザインにも色々な分野があると思うのですが、その中で最初にプロダクトを選ばれた理由は、なにかありますか? 例えば「ものづくり」という観点でいえば、民藝などの分野に進むという可能性もあったと思うのですが、いかがでしょうか?

三澤 これはあくまで個人的な意見にすぎませんが、民藝は「才能の世界」という感覚があって、あまり関心を持つことができませんでした。自分にそういう才能があるとも思えませんでしたし。

他方でプロダクト、その中でも、工業デザインは、理詰めで形を作っていくことができるので、そこが面白いと思っていました。

クール9割、パッション1割

中倉 プロダクトデザインにせよ、UIデザインにせよ、三澤さんは「理詰めで形を作る」というプロセスに興味や魅力を感じていると思うんですね。

しかし、実際には理詰めのみで形が出来上がるわけではありませんよね。

あえてステレオタイプな例をあげますが、デザイナーはクールであり、芸術家はパッションに溢れる、というようなイメージが、一般にはあると思います。実際、理詰めで形を作るというプロセスは、クールな手法だと思うんです。

ただ、三澤さんを含め、何人かのデザイナーさんと接していると、決してそれだけではなく、しっかりとパッションも持ち合わせている、という実感があります。要はバランスだと思うのですが、その辺りの、クールとパッションについての配分については、どのように考えていらっしゃいますか?

三澤 パッションが無くても、仕事は成り立つと思います。ざっくりと言えば、クール九割、パッション一割、というイメージでしょうか。

どの工程にもパッションは必要ですが、多くの人と仕事をする以上、そのパッションがどうしても邪魔になってしまう場面もありますから、私の場合、パッションは一割、ですね。

ただ、何かを作る上では最も重要なのは、その「仕様」を決めることだと思っています。パッションという意味では、そこに一番パッションを使っています。

人がモノを使うときに、形状は基本的にはどうでもいいと思うのですね。それよりも大事なのは、それを使ったときに何が起こるのか、という点にあると思う。その意味で、色や形は後からついてくるし、その目的を達成するための通り道だとも思います。

人の行動を考えた時に、何を達成させたいのか、どのように達成させたいのかという点が、私にとっては重要です。それを実際にモノにしていくための調整には確かに時間がかかりますが、まあ、それはやればいいだけの話なので。

もちろん、色や形による美しさを作るときにもパッションは込めますが、それが人に伝わるか、という点についてはあまり期待していません。それはそもそも伝わりづらいですし、どれだけこだわって作っても、ボタンはボタンですからね。

そういう意味では、人が無意識に使える状態にする方向を目指す、という部分にはパッションを使っているのだと思います。

神様のためのデザインと、人のためのデザイン

中倉 三澤さんとはこれまでにも何度か個人的にお話を伺う機会があり、そのたびに不思議に思っているのですが、三澤さんはあまり作品を通して自己表現を行う、ということをしませんよね。

例えばプロダクトであれば、その形状や曲線などのディティールを通して、自己表現が行われると思うのですね。そして様々なディティールを集めていけば、その人の持つ価値や世界観のようなものが見えてくると思うんです。

しかし、三澤さんの場合は、それが曖昧模糊としていて、非常に見えづらいように感じます。

あえて率直にお聞きしたいのですが、三澤さんには、ユートピアや理想の生活といったものは、あったりするのでしょうか?

三澤 理想の生活、というのはあまりないですね。というかそもそも、私がモノを作ることによって、自分の生活が整う、ということは無いと思っています。

基本的に私の興味は、自分の生活を満たすという方向ではなく、人そのものにあるんです。

つまり、何かを作ったとして、それを人はどのように使い、そこで何が起こるのか。あるいはUIやUXの手法によって、ほんの少し何かを変えることで、視点や考え方が変わり、何か楽しいことが起こるのではないか。そういうことを考えたり、実際に試してみたりすることが、私は単純にワクワクするんです。

ですから、私の作るモノは、自分の生活には重なり合っていないんです。
もちろん、単純に自分のモノづくりの能力が低いというのもあるのでしょうが、しかしいずれにせよ、私は自分が作ったものよりも、他人が作ったもののほうが好きですね。

中倉 理屈としては分かるんですが、けれどやはり、そこが不思議だなと思うんですね。

つまり、普通は自分の作りたいものと、理想の生活という二つの領域が重なることで、一つのモノづくりに対するエンジンとなると思うのですが、三澤さんの場合はそうではなく、誰かを楽しませたい、あるいは、これをあの人に渡したらどうなるだろう、というような思いが強い。

モノづくり、という観点ではなく、もう少し素朴に、理想の生活についてお伺いしてもいいでしょうか。

三澤 「無理しないし、誰にも無理させない生活」というのが理想ではあります。

中倉さんのコラムの中で、デザインには神様がいる、という話がありましたよね。 

私もデザインの神様はいると思いますし、その神の宿る理想の生活というのもあると思います。けれど、少なくとも私の場合は、自分の生活にその神様がいる、という状況は嫌なんです。

デザインには二つの方向性があると思うんですよ。一つは、デザインの神様がいて、その神様のためのデザインや生活をしていく、という方向。そしてもう一つは、人がいて、人が求めているものや、人が人らしくあるための環境を広げていく、という方向です。

私個人としては後者の立場を取っています。人が人らしくあるための環境を、整えていきたいと思っている。

ですからその意味で、理想を語るというのはとても難しいのです。理想の生活やユートピアといったものは、確かに私の中にあるのかもしれません。けれど語ってしまうと、それは神を作ってしまうことに繋がってしまう。それは嫌なんです。

しかし、それでもあえて言語化するのであれば「無理をしないし、させない」ということになります。

中編へ続く>

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