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ギモン・コラム デザインはユートピアの夢を見るか(1/2) 中倉大輔

こんにちは。DDDPの中倉です。

デザインに対して、僕は昔から「不思議だな」と感じるところがあったのですが、それでは何故、そしてどこに「不思議だ」と感じているのか、ということについて、自分なりに、真面目に考えてみたコラムです。

この前半では、デザインと編集の違いや、デザインという言葉の経緯を辿り、デザインがもつ輪郭について考察を行っています。

目次
1.デザインという不思議
2.デザインと編集とポストイット
3.シンカするデザイン


1.デザインという不思議

僕には昔から「デザインって不思議だな」という感覚があった。

それがどういう風に「不思議だ」と感じているのか、うまく言語化できなくて、これまでずっと留保にしていたのだけれど……最近になって、実に様々な「デザイン」や「デザイナー」を目にする機会が増え、それらを目にする度に僕の「不思議」は膨らみ、どうにも無視することのできない存在になってしまった。

だから僕は少しだけ、その「不思議」に対して真剣に考えてみよう、と思った。それが、このコラムの趣旨だ。

この「ギモン・コラム」は、私が持つ「疑問」や「不思議」などの「?」の正体を見極めることを主眼としており、残念ながら、その答えを出すものではない。

答えを期待される方は、後日掲載を予定している、UI・デザイナー三澤建人氏へのインタビューをお待ちいただき、そちらを読みいただきたい。そちらでは答え、ないしは答えへの何らかの補助線が導き出されているだろうと思う。

まぁ、もしかしたら全く別の何かに到達しているかもしれないけれど……その場合は、笑ってご容赦いただきたい。

さて、先述したとおり、この章で僕は「不思議の見極め」を行っており、なんとか、ある「見極め」に到達することができた。

もちろん、それが正確かどうかは分からない。それを土台として思索を進めたのちに行き詰り、この「見極め作業」まで舞い戻る必要が出てくるかもしれない。けれどとりあえず、僕はしばらくの間「この土台」の上で、思索を進めていくつもりだ。

ただ、私の「見極め作業」などに興味のない人も多いだろうから、まずはその「土台」――すなわち、見極めた不思議の正体について、お伝えしておこうと思う。結論から述べるならば、僕は「デザインが神様に感じられる」ところが、不思議だと感じていたのだ。

2.デザインと編集とポストイット

デザインという言葉は「編集(edit)」とかなり距離が近いように思う。

例えばコップやカトラリーやポスターを「デザインする」という行為は、それらを情報として捉え、編集している作業に他ならない。それだけじゃない。ここ十年ちかくで盛んになった「コミュニティデザイン」だって、要するにコミュニティの編集作業と呼ぶことができるだろう。

例えば「うまく機能していないモノゴトを、情報という観点で捉え、スムーズでスマートなモノゴトへと編集する」と、デザインを定義してみる。それはある程度、妥当に言い表しているように感じられるけれど……現実として、デザインが編集(edit)と呼ばれることは無い。

何故だろう?

この疑問に解答の補助線を与えてくれたのは、3Mのポストイットの開発秘話だった。

ポストイットはたまたま「粘着力の弱い接着剤」を開発した研究者、スペンサー・シルバーと、讃美歌集のしおりが落ちることで、粘着力の弱い接着剤の「用途」を思いついた製品事業部の研究員、アート・フライによって生み出された発明である。

そう。ポストイットは明らかに発明であるが、他方では「しおりの再デザイン」でもあるのである。そしてこの場合のデザインは、明らかに「編集」の範疇を超えている。

基本的に「編集」は、既に与えられた情報の中で行われる行為である。素材を選ぶ権利はあれど、そこへ勝手に素材を付け足す権利は、基本的には存在しない。例えば「しおりを編集する」場合、そこにプリントされた印刷の内容や、その形状などの「すでに存在するパラメーター」を調整する。

けれど、「デザイン」は、それだけにとどまらない。「しおりをデザインする」という行為は、それらに加えて「そもそも、どのようなパラメーターが必要なのだろうか?」という検討作業が加わって来る。その検討によって、これまでにない機能が付属されたり、これまでは当然とされていた機能があえてそぎ落とされたりする。

デザインとはそういう「根本的な組換え作業」を孕んでいる。

3.シンカするデザイン

調べてみると、デザインの語源はラテン語の「designare」であり、その意味は「計画を記号に表す」だという。ということは、デザインという言葉は「plan」と「sign」を遺伝子として持つ言葉なのだろう。

実際問題として、中国語でデザインは「設計」という漢字があてられているし、日本に輸入された当時は「図案」「工芸」「意匠」などの言葉が当てられていたようだ。

しかし現代において、そういった言葉の枠は、もはや機能していない。

恐らく、かつては絵や、装丁や、技巧や、発明や、編集や、設計などの中に「デザイン」という概念が埋め込まれていたのだろう。けれどそういった言葉たちに埋め込まれていた「デザイン」という存在は、次第に顕在化し、乖離し、いつしか浮遊する存在となった。

画家や技師、発明家、建築家、設計者、編集者、といった肩書きはいまだに有効だが、それらとは別にデザイナーが存在し、共同で作業するという光景は、今では当たり前になってきている。

現在、僕たちの住む世界はデザインで溢れている。手に取ることのできるものから、手に取ることのできないものまで、ありとあらゆるモノは、デザインを経て存在している。

そしてデザインには多様性がある。同じコップのデザインでも、それを生み出すデザイナーによって形状は多種多様だ。もちろんそれは、人という個体を通じて生み出されるので、当然といえば当然であるが……そこまで考えて、僕は一つの妄想に到達する。

「デザインって、なんだか神様みたいだ」

2/2へ続く)

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