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ギモン・コラム デザインはユートピアの夢を見るか(2/2) 中倉大輔

こんにちは。DDDPの中倉です。
お待たせしました。ギモン・コラムの後半をお送りします。
前回はデザインと編集の違いや、デザインという言葉の経緯からデザインの輪郭について考察していましたが、今回はその考察をベースに、ある種の妄想的試論を展開しております。
コラムの前半はこちらです。未読の方はぜひ、併せてご覧くださいませ。

目次
4.拡大するデザインの戦線
5.デザインはユートピアの夢を見るか

4.拡大するデザインの戦線

ようするに、僕のデザインに対するイメージはこうである。

十九世紀の半ば、イギリスは産業革命によってもたらされた機械産業で活気づいていた。しかし機械による造形物は、とても当時の人たちの美意識を満足させるものではなく、逆に痛みすら覚えるような出来栄えだった。

それらに声高に異議申し立てを行ったのが、ウィリアム・モリスやジョン・ラスキンだった。ジョン・ラスキンの講演や著作、ウィリアム・モリスの芸術・デザイン活動は明らかに、機械による造形物へのアンチテーゼだった。

つまり、それまで芸術家と職人が未分化であり、空気のように当たり前だった「デザイン」という存在は、機械産業による「安易な造形」の登場により、逆に急速に形作られていくのである。

「デザイン」はその後、モリスの「アーツアンドクラフツ運動」や、グロピウスの「バウハウス」その他諸々の活動を経て、爆発的にその存在感を増していった。いわゆる工芸という枠を超え、当初は敵対した機械産業ともポジティブな関係へと変化し、ヨーロッパ、アメリカ、そして世界へと活動の領域を広げていく。

領域の拡大は、抽象領域においても行われ始める。

デザインは様々なモノにおいて顕在化し、乖離し、価値や思想、哲学、あるいは神に近い観念となり、あらゆる分野に登場することになる。

そしてときに、悪用さることもある。やたらと主張の強い、一過性のデザインが生まれたりするのは、そのためだと、僕は思っている。それは例えば、時折、宗教において経典を都合よく読み替え、はた迷惑な活動をする信者がでてくる現象に似ている。

それはともかく、デザインは今なお、というか近年ますます、その広がりを加速させている。あらゆるものに「デザイン」は宿り、あらゆる場面で「デザイン」を感じる。あらゆる人が「デザイン」という存在とその価値を信じている。

あらゆる人が「デザイン」によって、動かされている……。

5.デザインはユートピアの夢をみるか

と、そこまで考えて、僕には一つの、新たな疑問が浮かび、妄想の足を止めた。

デザインは一体、何を考えているのだろうか?

デザインは何を考え、何を目指し、何を夢見て、多くの人を動かしているのだろう?

例えばデザインは、ある種のユートピアを夢見たりするのだろうか? だとすれば、そのユートピアとは一体、どのような世界なのだろうか?

いささか広げすぎた風呂敷を前にして、僕は途方に暮れていたのだけれど、しばらくして、一つのアイディアが浮かんだ。

そうだ。「彼」にこの風呂敷を持って行ってみよう。

分かっている。彼のところにこの広げっぱなしの風呂敷を持って行ったところで、きっと彼はたたんでくれないだろうし、遠慮なく嫌な顔をして、容赦なく悪態をつくだろう。でも、それでも彼はきっと何かを言うとはずだ。

「風呂敷のたたみ方」ではないかもしれないけれど、きっと彼は他の何かを教えてくれるだろう。

我ながら自分の厚かましさに呆れつつ、しかし期待はしっかり懐へ入れて、足を彼のところへ向けて、運び始めていた。

参考文献
原研哉(2003)「デザインのデザイン」 岩波書店
阿部公正監修(1995)「[カラー版]世界デザイン史」 美術出版社 
デザインとは? | 公益財団法人日本デザイン振興会
URL = https://www.jidp.or.jp/ja/about/firsttime/whatsdesign
3M|ポスト・イット® ノート|製品開発ストーリー
URL = http://www.mmm.co.jp/wakuwaku/story/story2-1.html

(DDDP 中倉)

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