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あの日の僕を、浮かべて見ている

僕は変わった市民ランナーで、深夜に走るのですが
深夜って不思議なもので空気の帯を昼間より敏感に肌が感じとるというか、「あ、今ちがう空気の中を通った」みたいなことがあるんですね。
匂いとか温度とかそういうものの変化を全身に受けながら河川敷を走っていると、呼吸きついな、とかヒラメ筋の右辺りが痛いぞ、とかいう持続的な感情とは別個に、いろんな感情が浮かんでは消えていきます。今日は来年成人式を迎えるというタイミングでもあるので、夏ごろに地元の中学校を横切りながら浮かんだ感情を綴ってみます。

昔の思い出というものはどうも感傷的になってしまう。
幼児の頃、小学生の頃の思い出はどこか儚げで健気で
中学生の頃は夢見がちで無性に走り出したくなるような
高校生の頃はただただ可哀想で、現実見がちで、影があって。それでいて感動的で暖かさがある
思い出が蘇る時、それはいつも追体験的で、一人称で主観的で、夢見心地でありながら現実味があって、今視点の冷静さが、当時を地でいく感情、初々しさ、視野の狭さ、弱さと同居している。そこにいるのはいつも弱かった自分で守られている自分。そして憧れた情景、未練のある情景だ。
そこにはいつも等身大の世界がある
無邪気な感情から仰ぎ見る世界だ。憧憬を見つめるほろ苦い感情だ。胸を膨らませる夢見心地であり、夢破れた途方にくれる虚ろだ。
全能感に覆われた世界、
システムへの眼差しが閉ざされた世界、
無力感から隔絶された世界は、
まるでおとぎ話のようで確かにそこに居た自分というものが俄には信じ難い。
人生を為す光景の大半は、湧いては流れ去りその姿を留めることはない。
が、しかし、たしかにその流れの中に、
その重みに堪え切れず、滞留している記憶。
それらがチラチラとノイズの様に点滅しているのだ。
彼らは何を訴えるのか
アルバムの写真の中に、文集の行間の中に、思い出の旋律の中に、
まだ何者でも無かった、これから何者にでもなれる気がした
あの日の僕を、浮かべて見ている。

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